「昭和天皇の87年」お世継ぎ誕生!皇室万歳の声は大帝国の山河に反響せり NO.2 運命の皇子(1)

(3/4ページ)【昭和天皇の87年  運命の皇子(1)

画=井田智康
画=井田智康

 祝賀の歓声は、くしくも端午の節句と重なった命名式で、最高潮に達した。

5月5日《御誕生第七日につき、御命名式が執り行われ、天皇より御名を裕仁(ひろひと)、御称号を迪宮(みちのみや)と賜わり、宮内大臣名をもって官報に告示される。

(中略)親王のお印は皇太子妃の御選定により「若竹」と定められる》(1巻8~9頁)

親王の名前には裕仁、雍仁(やすひと)、穆仁(あつひと)の3つの候補が、称号には迪宮、謙宮の2つの候補があった。

その中から選んで決めたのは、明治天皇である。

古来、親王の名前は儒教の経典に由来することが多く、裕仁の裕は易経に「益徳之裕也」〈益は徳の裕なり〉、詩経に「此令兄弟綽々有裕」〈此(こ)の令(よ)き兄弟、綽々(しゃくしゃく)として裕あり〉などがある。

迪宮の迪は書経の「恵迪吉従逆凶」〈迪(みち)に恵(したが)えば吉にして、逆に従えば凶なり〉などから採られた。

× × ×

明治天皇は5日午前10時、親王の名前と称号を自ら大高檀紙(厚手の高級和紙)に記して柳筥(やないばこ=柳の細枝を編んだ箱)に納め、侍従長を勅使として東宮御所の嘉仁皇太子のもとに届けさせた。

この時、皇居の桜田門内から陸軍砲兵隊による101発の祝砲が轟(とどろ)き、品川沖では満艦飾に彩られた海軍軍艦が21発の皇礼砲を響かせ、東京・日比谷公園では百数十発の花火が打ち上げられた。

 

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画=井田智康
画=井田智康

 万世を一系につなぐ皇子の名前が決まったのだ。それを喜ぶのに、貴賤も貧富もなかった。

当時の時事新報によれば第一高等学校(現東京大学教養学部)の学生500人余が夜に提灯行列を行い、皇居前に整列して国歌を斉唱した。

東京府下の各監獄もこの日は労務を休み、囚人に特別食が与えられたと、国民新聞に書かれている。

皇居豊明殿では正午に祝宴が催され、皇族、公爵、各大臣ら親任官が一斉に万歳を唱えた。

《これが宮中の御宴において万歳が唱えられた初例という》(1巻9頁)

親王誕生の翌日と命名式の翌日、皇居の上空に雌雄2羽の白鳩が飛来し、舞い遊んだと伝えられる。

これを見た宮中の女官らは平和の吉兆と喜んだ。

だが、母となった節子皇太子妃はこの頃、複雑な心境でいたようだ。

その胸の中ですやすやと眠る最愛の皇子と、別離のさだめが待っていたからである--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)宮内庁が24年の歳月をかけて編集した『昭和天皇実録』(全60巻約1万2000ページ)の本文は、この1文から始まる

(※2)辛丑は干支のひとつで、第38番目の組み合わせ。暦では1901年。祥雲はめでたい雲、瑞靄はめでたい靄(もや)。ともに吉兆を示す

【参考・引用文献】

○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻

○明治34年5月1~7日付の国民新聞、都新聞、時事新報

○田中光顕監修、長野新聞編『聖上御盛徳録』(長野新聞)

 

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