【昭和天皇の87年】 家族愛でも国民の模範に・・・養育担当者の早すぎる死 NO.2 運命の皇子(4)」

【昭和天皇の87年】 家族愛でも国民の模範に・・・養育担当者の早すぎる死 NO.2

(3/4ページ)【昭和天皇の87年  運命の皇子(4)

画=井田智康画=井田智康

 未来の天皇としての素養を磨くとともに、家族愛でも国民の模範となるような人間性を育もうとした川村の親王養育。

しかし、長くは続かなかった。川村が腎臓炎を患い、日に日に悪化したのである。

36年の晩秋、川村の長男、鉄太郎が東宮大夫のもとを訪れ、「(父の病は)不治のものと覚悟いたしました」と伝えている。

精魂かけて親王養育に打ち込んだことが、寿命を縮めたのだろう。

翌37年8月12日、裕仁親王3歳の夏に、川村は東京の自宅で死去した。

享年六十八。

明治天皇は川村家に祭資金を下賜する沙汰書を出し、長年にわたる海軍での功績をたたえるとともに「迪宮淳宮ヲ保育シテ善ク其誠ヲ竭(つく)セリ」と賞した。

川村の死後、親王養育の重責を任されたのは、東宮侍従長の木戸孝正だ。

安政4(1857)年生まれの当時46歳。

維新の元勲、木戸孝允(桂小五郎)の甥(おい)で、木戸家の家督を相続し、明治22年から宮内省に出仕していた。

なお、裕仁親王より2年早く生まれた長男の幸一はのちに昭和天皇の側近中の側近となり、終戦の聖断に向けて奔走することになる。

 

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 11月9日、両親王は川村邸を引き払い、木戸が常駐する東宮御所の敷地内に移った。

親王の養育は臣下があたるという慣例上、父母の皇太子・同妃と一つ屋根の下で暮らすわけではないが、両親王が起居することになった新造の皇孫仮御殿は東宮御所と庭続きで、皇太子・同妃と接する機会が格段に多くなる。

だが、そのことを大きく報じた新聞記事はない。

当時の紙面が、国家最大の非常事態で埋め尽くされていたからだ。

日露戦争である。

この時、満州では、のちに裕仁親王の帝王教育に深くかかわる第3軍司令官乃木希典の指揮の下旅順要塞への総攻撃が行われようとしていた--(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)明治34年5月5日付の国民新聞から引用。このほか川村は同紙に、「日本も既に世界の列に入りて国際社会の一員たる以上は子女の教養も世界的ならざるべからず。

特に後日、此の一国に君臨し給ふべき皇孫の御教養に関しては深く此点を心掛けざるべからず。

皇孫の成長し給へる頃に至りて彼我皇室間及び国際の交際愈々(いよいよ)密接すべきことを予測すれば、御幼時より英仏其他重要なる外国語の御修得御練習を特に祈望せざるべからず」と抱負を語っている

【参考・引用文献】

○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻

○エルウィン・ベルツ『ベルツの日記〈上〉』(岩波書店)

○鈴木(旧姓足立)孝「天皇・運命の誕生」(文藝春秋編『昭和天皇の時代』所収)

○国立歴史民俗博物館所蔵『木戸家文書』

○明治37年11月8日付の「木戸孝正日記」(宮内庁書陵部編『書陵部紀要 第53号』所収)

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