帝王教育(2) 皇太子を名君に… 大任は海の英雄、東郷平八郎に託された

   帝王教育(2)       皇太子を名君に… 大任は海の英雄、東郷平八郎に託された

(1/4ページ)【昭和天皇の87年

画=豊嶋哲志画=豊嶋哲志

帝王教育(2)

学習院初等学科を卒業した裕仁皇太子が進学する、東宮御学問所-。

その創設は殉死した学習院長、乃木希典(まれすけ)の発案だとされる。

乃木は、天皇に必要な資質として、陸海軍に君臨する大元帥としての一面を重視していた。

しかし学習院中・高等学科には軍人志望以外の生徒も多く、軍事教育を行う環境ではないと考えたのだろう。

乃木の構想では、生活指導や教育全般を担当する将官1人を主任とし、補佐の佐官2人、衣食住に関わる尉官3人を置いて御学問所を運営。

学友は6~8人の少人数で陸海軍志望者に限るという、軍事的色彩の強いものだった。

また、主任の将官は東宮仮御所内に居住するとされ、おそらく乃木自身が、その役を担う覚悟でいたようだ。

だが、乃木は殉死した。

その代わりに、乃木の名声に匹敵する人物として、元帥海軍大将の東郷平八郎に白羽の矢が立ったのである。

東郷は当時66歳。すでに軍務の一線からは退いており、最後のご奉公の思いで大任を引き受けた。

御所内に居住はしなかったものの、総裁に就任するや毎朝7時40分に出勤、学問所の運営に精励する。

なお、宮内省の意向もあり軍事的色彩は弱められ、宮相となる波多野敬直が副総裁に就任したほか、評議員の一人に東京帝大総長の山川健次郎が選ばれた。

× × ×

(2/4ページ)【昭和天皇の87年

 東宮御学問所の開設は、当初の予定より1カ月遅れた。

大正3年4月9日に、狭心症で療養中だった昭憲皇太后の容体が急変し、崩御したからだ(※1)。

親しく話すことの多かった“おばば様”の崩御-。

昭和天皇実録には、裕仁皇太子が青山御所内の殯宮(ひんきゅう)をたびたび訪れ、霊柩(れいきゅう)に菓子などを供える様子が記されている。

東宮御学問所の開所式が行われた5月4日も、裕仁皇太子は「憂愁の御意浅からず」だった。

翌日の東京日日新聞によれば、「御開始式の御事ありて後、侍臣を顧み給ひ『おばゞ様が御存生であらせ給はゞ、今日の儀をさぞ御喜び下さるであらう…』と仰せて、沈痛の御気色を拝したさうである」

とはいえ、いつまでも悲しんではいられない。

東郷が、厳かに言った。

「平八郎、謹みて言上し奉ります。

殿下には今日より当御学問所に於かせられ御修学遊ばさるヽに就きましては、益々御尊体を御丈夫様に遊ばされまして、御学問を御励み遊ばさるヽやう偏(ひとえ)に冀(こいね)がひ奉ります」

× × ×

(3/4ページ)【昭和天皇の87年

 こうして始まった本格的な帝王教育。

13歳の裕仁皇太子は毎朝午前6時半までに起床し、朝拝、朝食の後、学問所に入って午前8時から呼吸体操、同15分から授業を受けた。

時間割は以下の通りだ。

月(1)倫理(2)外国語(3)漢文(4)習字(5)武課及体操

火(1)算術(2)歴史(3)外国語(4)国語(5)武課及体操

水(1)国語(2)外国語(3)地理(4)武課及体操

木(1)倫理(2)漢文(3)歴史(4)馬術

金(1)算術(2)外国語(3)国語(4)地理(5)武課及体操

土(1)歴史(2)博物(※2)

各45分授業で、のちに算術は数学にかわり、理化学、法制経済、美術史なども加えられた。

なお、外国語は英語ではなく、欧州の王室では主流のフランス語である。

各科目のうち地理、算術、国語などは石井国次や飯島忠夫ら学習院教授が受け持った。

馬術は東宮武官の壬生基義(みぶ・もとよし)ら。

武課など軍事教育は陸海軍の現役将校が交代で指導した。

問題は倫理、すなわち学問としての帝王学を誰が教えるかだ。

将来の天皇の思想形成に直結する科目である。

哲学の専門家なら誰でもいいというわけにはいかない。

当初、候補にあがったのは現職の東京帝大総長、山川健次郎と、一高(現東京大教養学部)の名校長といわれた元京都帝大文科大学長(文学部長)、狩野亨吉(かのう・こうきち)だった。

しかし2人が固辞したため人選は難航し、東宮御学問所の授業が始まっても決まらなかった。

(4/4ページ)【昭和天皇の87年

画=豊嶋哲志画=豊嶋哲志

 当時東宮侍従だった甘露寺受長によると、人選を急ぎたい東宮大夫の浜尾新(元東京帝大総長)が、山川にこう相談したという。

「大学教授の中で、適任者はいないでしょうか」

山川が答えた。

「お恥ずかしい話ですが、大学教授の中には一人もいません。しかし民間に、一人だけいます」

このとき、山川が推したのが、杉浦重剛である。

安政2(1855)年に近江国膳所(ぜぜ)藩の儒者の家に生まれ、文部省留学生としてイギリスで化学を修学、27歳で大学予備門(のちの一高)校長に抜擢された英才だ。

東京英語学校(のちの日本中学、現日本学園)を設立する一方、雑誌「日本人」などの刊行に尽力し、東京朝日新聞の論説記事も長年執筆するなど、教育・言論界で幅広く活躍した。

だが、当時は持病の神経衰弱のため、長期にわたり転地療養を繰り返しており、新聞にも故人扱いされるほど世間から遠ざかっていた。

この杉浦が、東宮御学問所を活気づかせ、さらには皇太子妃選定にも大きな影響を及ぼすことになる--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)昭憲皇太后の崩御は2日後の4月11日に国民に発表され、5月26日、京都市の伏見桃山東陵に斂葬(れんそう=埋葬)された。

なお、明治天皇の皇后なので、本来なら「昭憲皇后」の追号が贈られるはずだが、宮内省のミスで「皇太后」のまま上奏。

のちにミスに気づいたものの、大正天皇が裁可した後だったため、訂正できなかった。

明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮では大正9、昭和38、同42年の3回にわたり、「昭憲皇后」に改めるよう宮内省(庁)に請願したが、いったん天皇が裁可したものは変えられないとして、現在も認められていない

(※2)5月の開校当初は外国語や歴史などがなく、時間割が固まるのは秋以降である

【参考・引用文献】

○宮内庁編『昭和天皇実録』4巻

○小笠原長生編著『東郷元帥詳伝』(忠誠堂)

○大正3年5月5日付の東京日日新聞

○甘露寺受長著『天皇さま』(日輪閣)

○藤本尚則著『国師杉浦重剛先生』(敬愛会)

コメントを残す

サブコンテンツ

i2i


サイト内ランキング



アクセスカウンター


my日本

忍者画像人気記事


このページの先頭へ