帝王教育(3) 「三種の神器は知仁勇」 尊皇の思想家、杉浦重剛の熱血授業  NO.1

 帝王教育(3) 「三種の神器は知仁勇」 尊皇の思想家、杉浦重剛の熱血授業   NO.1

 

(1/6ページ)【昭和天皇の87年

画=豊嶋哲志画=豊嶋哲志

 

帝王教育(3)

杉浦重剛-。

東宮御学問所で裕仁皇太子に学問としての帝王学を教えることになる、

明治・大正期の思想家である。

どんな人物か-。

知友の三宅雪嶺(哲学者)によれば「吉田松陰につながる系統」の教育者であり、門下生の河野謙三(戦後の参議院議長)の言葉を借りれば「徹底した民族主義者でありながら進歩的な文化人」となる。

戦後は、国粋主義者の一言で片付けられることが少なくない。

しかし杉浦の「国粋」はいたって開明的で、いわば和魂洋才の実践者であった(※1)。

杉浦は言う。

「我国は古より能く外国の文物を学び、その長を採り、我が短を補ひて以て自国の文明を進展せしめたり

故に今後と雖(いえど)も、固より彼の長を取りて我が短を補ふこと肝要なりとす。

英も学ぶべし。仏も学ぶべし。

然れどもこの精神に至りては断じて古来の美を消磨(しょうま)せしむることあるべからず」

× × ×

東宮大夫の浜尾新(元東京帝大総長)の懇請を受け、杉浦が東宮御学問所の倫理、すなわち帝王学の授業を受け持つ決意を固めたのは大正2年5月16日、御学問所の開設から十日以上が過ぎていた。

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 ただし人事の最終責任者は御学問所総裁、東郷平八郎だ。

東郷は、腹心の御学問所幹事(教頭に相当)、小笠原長生に経歴などを調べさせて聞いた。

「杉浦をどう思うか」

「命がけで事に当たる人だと思います」

「そうか、それだけ聞けばよろしい」

正式採用は5月23日。

帝王学といっても、教科書などがあるわけではない。

さて何を教えるべきか、杉浦は準備に1カ月を要した。

6月22日、いよいよ授業開始である。

この日、杉浦は早朝に靖国神社を参拝、講義内容の草稿を神前に供えてから出勤した。

当時は東宮御学問所の校舎が完成しておらず、東宮御所内の1室を仮教室としていた。

20坪ほどの広さで、横に3つ並べた机が2列、前列中央に裕仁皇太子が座り、左右と後列に学友5人が座る。

教室の後ろに背もたれのない椅子が幾つかあり、東郷、小笠原、浜尾ら参観者が腰を下ろした。

杉浦は、身を固くしたことだろう。

目の前に、将来の天皇がいる。

その後ろから、日本海海戦の国民的英雄がまっすぐに自分を見つめている。

一方、裕仁皇太子と学友も、ほかの先生たちとは異なる風貌と雰囲気に、いつにもまして姿勢を正したのではないか。

白い頬髭を獅子のごとくたくわえ、顎髭は胸まで伸び、眼光は射貫くように鋭い。

その杉浦が、口を開いた。

第1回の授業のテーマは、「三種の神器」だ。

× × ×

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画=豊嶋哲志画=豊嶋哲志

 「皇祖天照大神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を大八洲(日本)に降ろされるとき、三種の神器を授けられました。

三種の神器は皇位の御証であるだけでなく、これをもって至大の聖訓を示されたのです。

すなわち万物を照らす鏡は知を、円満にして温潤な玉は仁を、剣は説明するまでもなく勇を-。

つまり三種の神器は、知仁勇の三徳を実物に託して示されたものなのです」

以上の授業内容は、杉浦の死後に助手が刊行した「倫理御進講草案」から概略をうかがえる。

杉浦は、知仁勇の三徳は中国でも西洋でも尊ばれているとし、「ただ、彼(中国や西洋)においては理論によって三徳を説き、我にあっては三種の神器によって示されている違いがあるだけです。

王者が三徳を修得すれば、天下国家も平穏になることでしょう」と諭した。

そして、裕仁皇太子の目を見つめながら、最後をこう締めくくった。

「倫理というのは、口で論じるだけでは何の意味もありません。

実践躬行の四字あるのみです。

こいねがわくは、殿下もよく実行されますように」

45分間の定刻より5分ほど早く、杉浦は授業を終えた。

ほっとしたことだろう。

同時に、将来の天皇に帝王学を教える責任を、改めて実感したはずだ。

翌日、こう詠んでいる。

数ならぬ 身にしあれども 今日よりは 我身にあらぬ 我身とぞ思ふ

× × ×

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