帝王教育(4) 東郷平八郎の教えと「王者の答案」

帝王教育(4)    東郷平八郎の教えと「王者の答案」

(1/4ページ)【昭和天皇の87年

画=豊嶋哲志画=豊嶋哲志

 

帝王教育(4)

大正4年10月1日《(裕仁皇太子は)伊勢湾付近において実施の特種射撃を御覧のため、第一艦隊へ行啓される。

東宮大夫浜尾新・東宮侍従長入江為守・東宮武官長山根一貫以下東宮侍従、東宮武官、東宮職出仕等が供奉し、東宮御学問所総裁東郷平八郎・同幹事小笠原長生も同行する》

(昭和天皇実録4巻197~198頁)

特種射撃とは、廃船などを標的にして沈める実弾訓練のことだ。

将来の大元帥、裕仁皇太子に日本海軍の練度などを知ってもらう、いい機会となる。

この日は、日露戦争後に建造された最新の金剛型巡洋戦艦2隻が、老朽艦の壱岐を撃沈させることになっていた。

御召艦の後甲板で訓練開始を待つ裕仁皇太子の傍らに、東郷が立った。

「壱岐は、日本海海戦で我が連合艦隊に包囲され、降伏したロシア艦「ニコライ一世」であります。

それから十年、帝国軍艦として尽くしてくれましたが、老朽して使用に堪えなくなったため、本日、僚艦の標的となり、最後のご奉公を務めるものでございます」

ふだんの東郷は、裕仁皇太子の教育指導を東宮御学問所の教授たちに任せ、自ら口を出すことはほとんどない。

しかし御学問所幹事の小笠原によれば、この日の東郷は「三笠艦上に立てる面影を髣髴(ほうふつ)」とさせるものがあった。

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「必ず短時間で撃沈いたしますでしょう」

東郷は、その予測時間を明言した。

そばで聞いていた東宮侍従の甘露寺受長は、距離もあり、風浪もあるのに、東郷の予測通りに沈むだろうかと興味津々だったという。

訓練が始まった。

砲声が轟(とどろ)き、海上を白煙が覆う。

砲弾は次々に命中、たちまち壱岐は傾き、十数分で海中に没した。

甘露寺が舌を巻く。

「時計を検べてみると、総裁の言われた時間と二分も違っていなかった」

東郷は、陸海軍の演習などにはいつも同行した。

大正6年7月、御召艦の香取で山陰地方の海岸などを視察したときのことだ。

あいにくの雨だった。

雨具を着た裕仁皇太子は艦橋で、海岸の地勢や潮流を海図と見比べながら、東郷の説明を熱心に聞いていた。

雨はますます激しくなり、裕仁皇太子の頬と東郷の髯(ひげ)を濡らした。

周囲が中に入るよう勧めても、2人は艦橋から離れなかった。

学習院時代の乃木希典は、しばしば裕仁皇太子に訓示した。

一方、寡黙な東郷は自らの態度によって、将来の大元帥にあるべき姿を示したかったのだろう。

× × ×

ところで、東宮御学問所で裕仁皇太子と机を並べるのは大迫寅彦、松平直国、南部信鎮(のぶしげ)、堤経長、久松定孝の5人。

いずれも学習院初等学科時代からの学友だが、身分は「東宮職出仕」となった。

このうち大迫は、先の大戦後に侍従次長を務める永積寅彦である(※1)。

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 永積によれば、裕仁皇太子が起居する東宮御所内の御座所は和風2階建てで、1階に寝室、食堂、更衣室などがあり、2階に学友と共同の自習室があった。

寝室には寝台が4つ、裕仁皇太子、東宮侍従、学友が2人ずつ交代で寝起きした。

御所内に女性職員はおらず、いわば男子寮のような生活である。

なお、3年に及ぶ在学中、東宮侍従らが頭を痛めていた問題がある。

裕仁皇太子の近視と猫背だ。

東宮侍従の甘露寺受長によれば、遠いところを見れば近視を矯正できるというので、教室の南面の樹木を切り払い、品川沖が見通せるようにした。

また、姿勢を正しくするために、座板の両側に取っ手をつけた特製の椅子をつくり、そこに両手をかけて胸を張らせるようにしたという。

だが、東宮侍従らの苦心惨憺(さんたん)も空しく、裕仁皇太子はやがて眼鏡をかけることになる。

一方で裕仁皇太子は、学業成績は優秀だったようだ。

ある日の歴史の授業、担当教授の白鳥庫吉が、こんな問題を出した。

「仁徳天皇は、人家のかまどの炊煙が希薄なのをご覧になって嘆かれましたが、この時期、国家が疲弊していた原因は何だと思いますか」

学友の一人は「洪水」と答え、別の一人は「飢饉(ききん)」と発言した。

裕仁皇太子は、しばらく考えてから、こう言った。

「一番の原因は神功皇后の三韓征伐(※2)、これが当時における国家疲弊の最大原因です」

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画=豊嶋哲志画=豊嶋哲志

 別の日、白鳥はみんなに聞いた。

「白色人種と黄色人種の区別は何ですか」

ほかの学友が答えられないでいると、裕仁皇太子が言った。

「黄色人種も白色人種も何ら区別はない。

ヨーロッパに行って白色人種となり、東洋に来て黄色人種となっただけです。

そして白色人種は早くに文明を吸収し、今日に至っています」

いずれも、まだ授業で教えていない範囲だ。

白鳥は、これぞ「王者の答案」と感嘆したという。

だが、歴史の歯車は、「王者の答案」とは反対方向に回り出していく。

1914(大正3)年の夏、第一次世界大戦が勃発-。

このとき、日本が中国に対してとった行動が、中国はもちろんアメリカなどの対日不信を招き、先の大戦につながる禍根を残すことになる--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)大迫寅彦はのちに養子入りし、永積姓となった

(※2)仲哀天皇の后、神功皇后の主導で朝鮮半島に出兵し、新羅、百済、高句麗の3国を服属させたとされる戦争。時期や支配領域などついては諸説ある

【参考・引用文献】

○宮内庁編『昭和天皇実録』4巻

○小笠原長生編著『東郷元帥詳伝』(忠誠堂)

○甘露寺受長著『背広の天皇』(東西文明社)

○永積寅彦著『昭和天皇と私』(神道文化会)

○田中光顕監修『聖上御盛徳録』(長野新聞)

 

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