宮中某重大事件(2)柔和な皇太子妃候補に“待った” 婚約解消の動きが広まった

【昭和天皇の87年】
柔和な皇太子妃候補に“待った” 婚約解消の動きが広まった

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画=豊嶋哲志画=豊嶋哲志

 

宮中某重大事件(2)

大正7年1月、16歳の裕仁皇太子は、大きな初春を迎えた。皇太子妃候補が見つかったのだ。

1月12日《(久邇宮=くにのみや)邦彦王第一女子良子(ながこ)女王を皇太子妃に御予定の旨、天皇の御沙汰が邦彦王に下される》(昭和天皇実録5巻140頁)

学習院女子部に通う良子女王は当時14歳。白羽の矢を立てたのは、貞明皇后である。

真偽は定かでないが、こんな逸話が残されている。

前年10月、貞明皇后が学習院女子部を視察したときのことだ。

授業のあとに複数の女子子学生と対面した貞明皇后は、ひとりの少女に目をとめた。

お嬢様らしい白い手が並ぶ中で、ひとりだけ、あかぎれの手をしていたからだ。

あとで教員に聞くと、誰もが嫌がる便所掃除を率先して行っている生徒だという。

それが、良子女王だった。

ふくよかな顔立ちをした色白の美人。

温和な性格で、何より健康である。

東京日日新聞の宮内省記者だった藤樫準二によると、貞明皇后はこの日、「『あのような姫』ならば申し分がないと、固くお胸にやきつけてお帰りになった」。

以後、話はとんとん拍子に進む。

貞明皇后は、自分の気持ちを大正天皇や裕仁皇太子に伝え、意向を受けた宮相の波多野敬直が学業成績や健康状態などを調査、6年12月22日には元老の山県有朋、松方正義、西園寺公望が会同し、皇族筆頭の伏見宮貞愛(さだなる)親王に説明、《良子女王を皇太子妃に御予定すること然るべしと一決する》(昭和天皇実録5巻140頁)。

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 万世を一系につなぐ、天皇家との縁談―。

久邇宮家には願ってもないことである。

だが、父の邦彦王の心は晴れなかった。

良子女王の母、俔子(ちかこ)妃は薩摩・島津家の出身で近親に色覚障害者がおり、遺伝の可能性が疑われたからだ。

良子女王に異常はなかったものの、邦彦王は宮相の波多野に打ち明けて相談した。

これに対し波多野は、取り立てて問題にするには及ばないと考えたようだ。

ためらう邦彦王に、「是非とも」と申し入れた。

--ならば娘に、皇太子妃としてふさわしい教育をしなければ--

心が晴れた邦彦王は、さっそく邸内に御学問所を開設。

良子女王は学習院を退学し、同所で国語や数学など一般科目のほか、修身、礼法、薙刀(なぎなた)、和歌、点茶、フランス語などを学んだ。

このうち修身を受け持ったのは、東宮御学問所で裕仁皇太子に倫理を教える、杉浦重剛である。

婚約が正式に内定したのは、8年6月10日。

もっとも、すぐに2人が会えるわけではない。

その日が来たのは、婚約内定から7カ月後だ。

9年1月6日《(裕仁皇太子は)午後一時御出門、御参内になり、御内儀にお成りになる。

天皇・皇后に御拝顔後、二時頃より約一時間、皇后御同席のもと初めて良子女王に御対面になる》(昭和天皇実録6巻94頁)

初対面の印象は、お互いどんなだっただろう。

だが、2人の意思とは無関係に、このあと婚約をめぐり宮中を揺るがす大騒動が起きる。

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 発端は、裕仁皇太子との婚約が内定した良子女王の兄宮に、軽い色覚障害のあることが学習院の健康診断で分かったことだった。

これを問題視したのは、元老の山県有朋である。

山県は、良子女王の母の俔子妃に色覚障害の遺伝があると知りながら、深く考えなかった宮相の波多野に辞任を迫り、後任として山県系の中村雄次郎を登用、正確な調査を指示した。

大正9年夏ごろのことだ。

11月11日、宮内省侍医療御用掛は報告書を提出。

そこには、色覚障害の家系の女子から産まれる男子の半数は色覚障害の可能性があること、その場合は赤と緑の識別に問題が出ること、しかし視力には何ら問題がないことなどを指摘しつつ、こう書かれていた。

「然レドモ只現行徴兵令存在スル限リ、実際ハ兎モ角、法律上陸海軍軍人トナラセラルルコトハ絶体ニ不可能トナラセラルルノ結果ヲ来タシ、随テ陸海軍軍人タルノ資格ヲ失ハセラルル事ニ相成候…」(※1)

山県は驚愕した。

良子女王が皇太子妃になれば、その皇子は将来の天皇、陸海軍の大元帥になる。

山県は陸軍最長老として、この婚約を認めるわけにはいかなかった。

ほかの元老も山県に同意し、皇族筆頭の伏見宮貞愛親王を通じて良子女王の父、久邇宮邦彦王に婚約を辞退するよう勧めた。

邦彦王は愕然とした。

色覚障害の遺伝のことは、婚約内定の1年以上も前に宮内省に伝えてある。

すでに婚約は新聞報道され、国民も祝福しているのに、解消すればその悪影響は計り知れないだろう。

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画=豊嶋哲志画=豊嶋哲志

 そのころ邦彦王の耳には、婚約解消の動きは山県系の長州閥が勢力拡大を狙った策謀であるとの噂話も届いていた。

山県への不信を強めた邦彦王は同年11月下旬、現時点で婚約解消には納得できないと貞明皇后に直訴した。

だが、これは逆効果だったようだ。

将来の天皇の外戚となれば、ただでさえ権勢が強まる。

元老や政府の方針に口をはさむことは、厳に謹まなければならないのに、結婚前から表立って行動を起こすようでは先が思いやられる。

貞明皇后は、良子女王を皇太子妃とすることに不安を覚えたのではないか。

邦彦王の行動は、ほかの元老や政府首脳の反発も招いた。当時首相の原敬が9年12月18日の日記に書く。

「久邇宮の御挙動は穏当ならず」

こうして、婚約解消の風は一段と強まった。

しかし、その風に逆らい、意外な行動に出た人物がいた。

裕仁皇太子と良子女王に倫理、修身を教える、杉浦重剛である--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)当時の徴兵令では色覚障害者は軍務に支障が出るとして兵役が免除されていた

【参考・引用文献】

○宮内庁編『昭和天皇実録』5、6巻

○宮内庁編『貞明皇后実録』18巻

○片野真佐子著『皇后の近代』(講談社)

○女性自身編集部著『御素顔の皇后さま』(光文社)

○藤樫準二著「皇太子妃・色盲事件」(鶴見俊輔、中川六平編『天皇百話 上』〈ちくま文庫〉所収)

○高橋紘著『人間昭和天皇 上』(講談社)

○猪狩史山編『申酉回瀾(しんゆうかいらん)録』(憲政資料室収集文書)

○原奎一郎編『原敬日記』5巻(福村出版)

 

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