宮中某重大事件(3)大物右翼結集 皇太子妃内定解消の流れを覆した杉浦重剛の大和魂

【昭和天皇の87年】宮中某重大事件(3)
大物右翼結集 皇太子妃内定解消の流れを覆した杉浦重剛の大和魂

 

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宮中某重大事件(3)

 裕仁皇太子に学問としての帝王学を教え、お妃候補に内定した良子女王(久邇宮家第1王女)の家庭教師も務める東宮御学問所御用掛、杉浦重剛の思想と行動は、杉浦が深く尊敬する吉田松陰のそれに近い。

二人とも「やむにやまれぬ大和魂」を持つ熱血漢で、正義を実現するためなら命を惜しまなかった。

 その杉浦が、久邇宮家の教育係だった後閑菊野(のちの桜蔭高等女学校初代校長)から、驚くべきことを伝えられたのは大正9年11月18日である。

 「ご婚約の内定が、取り消されることになりそうです」

 「何っ!」

 良子女王に色覚異常の遺伝の可能性があること、それを理由に山県有朋ら元老、宮中高官が婚約解消を画策していること-を知った杉浦は、獅子のごとく伸びた髭(ひげ)をピリピリ震わせた。

 「閥族めが。綸言(りんげん)汗の如しの格言を知らんのか」(※1)

 それまで杉浦は裕仁皇太子に、帝王に必要な知・仁・勇を説き、頭で理解するだけでなく「実践躬行(きゅうこう)」こそ大切である-と指導してきた。

そして杉浦のみるところ、裕仁皇太子への帝王教育は期待以上の成果を上げていた。

 「内定を取り消せば、これまで教えてきたことが水泡となろう。山県らの陰謀を断固阻止しなければならぬ」

 以後、杉浦は猛然と婚約続行の運動を展開する。

12月4日に東宮御学問所へ辞表を提出して不退転の決意を示すと、その前後から各界の有識者に内定解消の不義を連日説いて回った。

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 杉浦は言う。

「婚約を破る時は世人をして道に迷はしむるのみならず、対者を死地に陥る。

不仁も甚だしきものなり。

尋常人に於(おい)てもこれを為すに忍びず、況(いわ)んや仁愛の本体たる皇室に於てをや」(杉浦の建白書から抜粋)

× × ×

当時、宮内省は婚約解消の動きを報道禁止とし、厳重な箝口(かんこう)令を布いていた。

しかし杉浦が自宅に門下生や知人を呼び、あるいは電話で各方面に働きかけたことから、元老の山県らを糾弾する声が次第に高まっていった。

一連の経緯を、正史である昭和天皇実録はこう記す。

大正9年12月6日《杉浦は去る十一月十八日、久邇宮邸における良子女王への進講の後、後閑菊野より、女王が色盲の遺伝子を有する可能性があることから、父邦彦王に対し婚約辞退が求められているとの事実を告げられ、人道上、取るに足らぬ些少の欠点をもって御内定を取り消すことは、満天下に悪模範を示すものであるとしてこれに反発、(中略)一昨四日に至り、病気を理由として御用掛の辞表を提出し、処分保留のままこの日の欠勤に及ぶ》

《杉浦は十三日も病気を理由に欠勤し、以後東宮御学問所の終業まで、倫理の講義は行われず。

杉浦による御婚約決行、御内定取り消し反対を求める動きは、その後、次第に世上の知るところとなり、民間右翼を中心に宮内省や元老山県有朋を非難、攻撃する運動へと拡大することとなる》(6巻194頁)

杉浦の熱情が、ついに世論を動かし始めたのだ。

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 こうなると、報道禁止のはずの新聞各社も黙っているわけにはいかない。
当時、東京日日新聞で駆け出しの宮内省記者だった藤樫準二がこう振り返る。

「(宮内省で)誰彼の区別なく『宮中事件?』で廊下をかけずり廻ったが、内容どころか事件の匂いもかぎ出せなかった。

宮内省がこれほど厳秘にしていながら、社に立寄ったら政治部記者の情報で、この事件なるものは『東宮妃御内約をめぐって』の輪郭が、やっと浮び上がった…」

明くる大正10年1月26日、読売新聞が「杉浦翁、憤慨して(東宮御学問所に)辞表を提出」と報じ、ただちに発売禁止処分となるも、新聞各社は見出しだけで「宮中某重大事件」、「杉浦重剛翁と宮相の道義上の意見衝突」と書き立てていった。

× × ×

この事態に仰天したのは当時の首相、原敬だ。

極秘に進めていた婚約解消の動きが明るみになることで、政治問題化することを恐れたのである。

2月2日、原は宮相の中村雄次郎を官邸に呼んで言った。

「本問題を長く未定の間に置かるゝは皇室の御為めにも宜しからず、又行政上に於ても如何にも憂慮に堪へざる次第なれば、何(いず)れとも速かに決定ありたし」(原の日記から抜粋)

宮相の中村も、言われるまでもなく頭を抱えていた。

杉浦の動きに呼応し、右翼国粋主義者たちが騒ぎ始めたからである。

その名を挙げれば頭山満、杉山茂丸、内田良平、大川周明、北一輝…。まさに大物右翼そろい踏みだ。

しかも彼らは、婚約解消は長州閥の勢力拡大を狙った山県の陰謀だと糾弾し、2月11日の紀元節にあわせ、右翼結集の大決起大会を開く計画を練り始めた。

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 中村は青ざめた。ここまで事態がこじれると、婚約解消を強引に進めるわけにはいかない。

紀元節に右翼が大騒動を引き起こせば、累が皇室に及ぶ恐れもある-。

そして迎えた紀元節の朝、新聞各紙に、宮内省発表の記事が掲載された。

「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し世上種種の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更なし」

中村は、右翼の大会の前に婚約続行を明らかにすることで、事態の収束を図ったのだ。

同時に中村は責任をとって辞任。

婚約解消派の黒幕と目された山県も、枢密院議長職など全ての官職の辞表を提出し、勅許のないまま神奈川県小田原の別宅に謹慎した。

こうして宮中某重大事件は落着した。

2人が結婚するのは3年後、裕仁皇太子22歳、良子女王20歳の初春である--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)綸言汗の如し 天子が一度口にした言葉(綸言)は、一度流した汗が戻らないように取り消せないということわざ。

当時、婚約続行の論拠のひとつとなった。

 

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」6巻

○明治教育史研究会編「杉浦重剛全集」6巻

○藤本尚則著「国師杉浦重剛先生」(非売品)

○藤樫準二著「皇太子妃・色盲事件」(鶴見俊輔、中川六平編「天皇百話 上」〈ちくま文庫〉所収)

○大竹秀一著「天皇の学校」(文芸春秋)

○原奎一郎編「原敬日記」(福村出版)5巻

○大正10年2月11日の東京朝日新聞

○同年3月24日の都新聞

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