宮中某重大事件(4)君主国が次々崩壊… 卒業の春を迎えた皇太子に、皇国の命運が託された

【昭和天皇の87年】宮中某重大事件(4)
君主国が次々崩壊… 卒業の春を迎えた皇太子に、皇国の命運が託された

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宮中某重大事件(4)

宮中が皇太子妃問題で揺れた大正7年1月から10年2月にかけ、国内外の情勢も激しく揺れ動いていた。

1600万人もの戦死者を出した第一次世界大戦は1918(大正7)年11月に終結したものの、その前年にロシア革命が勃発。

イギリスをはじめ各国軍隊は革命に干渉し、日本も大正7年8月、アメリカと歩調を合わせてシベリアに出兵した。

その影響で国内では、もともと高値だった米価が一気に急騰し、全国各地で米騒動が発生。

当時の寺内正毅内閣が総辞職に追い込まれた。

かわって議会第1党の立憲政友会総裁、原敬を首班とする本格政党内閣が発足する。

原は、英米との協調、中国への内政不干渉など穏健な外交政策を掲げたが、1919年3月に朝鮮半島で3・1独立運動(※1)が、

5月には中国で5・4運動(※2)が起こるなど、抗日機運はおさまらなかった。

激動する内外情勢で、原をはじめ政府首脳が最も憂慮したのは、君主国の相次ぐ崩壊だ。

1912年の辛亥革命で中国・清王朝が滅亡したのを皮切りに、1917年のロシア革命でロマノフ王朝が倒され、皇帝ニコライ二世は家族もろとも処刑された。

翌年には第一次世界大戦で敗退したドイツのヴィルヘルム二世が退位して帝政が崩壊。

同時期にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝カール一世も退位し、中欧で650年君臨した名門ハプスブルク家の歴史にピリオドが打たれた。

国際社会で影響力を持つ主要国のうち、君主国は日本、イギリス、イタリアなど数カ国のみになってしまったのだ。

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 国内ではこの時期、普選運動(※3)や被差別部落解放運動、大正9年の第1回メーデーをはじめとする労働運動などが高まり、いわゆる大正デモクラシーの真っ最中である。

原をはじめ政府首脳は、海外における帝政打破の風潮や共産主義の策動が、国内の各種運動と結びつくことを恐れていた。

しかも、この頃から大正天皇の健康が悪化し、国民の前に立てなくなってしまう。

明治維新以降、天皇を支柱とする近代化政策を進めてきた日本は、ひとつの曲がり角にさしかかったといって過言ではないだろう。

そんな中、政府や宮中首脳が大きな期待を寄せたのが、大正8年4月に18歳となり、皇室典範の規定で成年に達した、裕仁皇太子だった。

× × ×

東宮御学問所で修学中の裕仁皇太子だが、8年秋頃から、生活環境が大きく変わり始める。

天皇名代としての公務が増えたからだ。

昭和天皇実録によれば、8年11月25日《海軍大学校・海軍経理学校・海軍軍医学校卒業式に天皇御名代として御臨席のため、海軍大学校に行啓される。

(中略)天皇御名代としての行啓はこれをもって嚆矢(こうし)とする》(6巻83~84頁)

9年4月13日《明日挙行の信任状捧呈式の習礼を行われる。

(以後)外国使臣による信任状等の捧呈は、皇太子が代理として受領し、これを天皇に転呈することとなる》(同巻121頁)

翌14日、裕仁皇太子は皇居牡丹ノ間で、イギリス、メキシコ、チェコスロバキアの特命全権大使や公使から信任状の捧呈を受けた。

この時の様子を、首相の原が日記に書く。

「御態度並に御言葉等実に立派にて 宮内官一同と共に実に感嘆せりと云へり」

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 軍務も増えた。

同年10月31日《代々木練兵場に行啓され、天長節観兵式に天皇御名代として御臨場になる。

進風(裕仁皇太子の愛馬)に召され閲兵を行われ、ついで分列式を御覧になる》(6巻174~175頁)

この時の様子を、翌日の東京朝日新聞が伝える。

「各隊将卒の捧刀捧銃に対し 一々挙手を以て応え給ふ英姿 一層颯爽(さっそう)として拝された」

× × ×

揺れ動く国内外の情勢、気がかりな大正天皇の病状…。

そんな中で裕仁皇太子は、7年に及ぶ東宮御学問所での帝王教育を終え、卒業の春を迎えた。

10年2月18日《東宮御所において(御学問所の)終業式が行われ、本日をもって閉鎖となる》(7巻15頁)

このとき、御学問所総裁の東郷平八郎が裕仁皇太子の前に立ち、噛みしめるように言った。

「殿下におかせられましては、優秀の御成績をもって御修了あらせられ、加えて陸海軍の演習、諸地方の行啓など、実地の御見学も少なくなく、以て文武ともに将来御研鑽(けんさん)の基礎たるべき高等普通学科を御修得あそばされたのは、御学問所職員一同の感激したてまつるところであります。

今後におきましても、政事軍事など実際の御見学以外に枢要なる高等学科を御修得あそばされ、以て益々御学徳を御涵養(かんよう)あらせられますよう、切に期待したてまつります」

式場には、御学問所評議員で前東京帝国大学総長の山川健次郎、同じく評議員でのちに陸相を努める宇垣一成らに混じって、宮中某重大事件で御学問所を欠勤していた杉浦重剛の顔もあった。

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 杉浦は日記に書く。

「久振ニテ東宮御学問所御終業式ニ参列。殿下ニ拝謁。

御機嫌麗(うるわ)シキヲ拝シ、感激ノ至リニ堪ヘズ。

(中略)正ニ七年ノ御修学期ヲ完了。

猶近来ノ緊要問題モ解決シタレバ、不肖ノ余モ、先ヅ微衷ノ貫徹ヲ覚ヘ、洵(まこと)ニ晴天白日ノ想アリ」

東郷が言ったように、裕仁皇太子の御学問所での成績は優秀だった。

幹事(教頭)の小笠原長生は「何としても他の学友は殿下(の成績)をお抜き申すことが出来なかった」、教務主任の白鳥庫吉も「総ての学科につき毫も偏せらるゝことなく、極めて円満なる御修養を遊ばさるゝなり」と評価する(※4)。

一流の教授陣による密度の高い少人数教育だ。

何事にも真面目な性格の裕仁皇太子は、吸収するのも早かったに違いない。

卒業にあたり、どんな気持ちだっただろう。

学友の永積寅彦は「非常に解放された感じでした」と率直に振り返る。

永積ら5人の学友は卒業後に学習院高等科3年に編入となり、大学を目指す。

だが、大正天皇の名代を務める裕仁皇太子に、進学の選択肢はない。

その目は遠く、世界を見つめていた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週からは日本の皇太子として初の「欧州外遊」編を連載します)

(※1)3・1独立運動 日本に併合された朝鮮半島で、元韓国皇帝の高宗が死去したことをきっかけに起きた民族運動。

デモなどで独立を求める動きが朝鮮半島全域に広がった

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(※2)5・4運動 第1次世界大戦後のパリ講和会議で山東半島の日本権益が列強に認められたことなどに反発した反帝国主義運動で、学生や労働者らを中心とするデモやストライキが中国各地で起きた

(※3)普選運動 納税額などの制限のない普通選挙権を求める運動。

原敬内閣は大正8年、有権者資格の納税額をそれまでの10円以上から3円以上に切り下げたが、全廃を求める声が強く、大正14年に加藤高明内閣によって普通選挙法(満25歳以上の成年男子)が制定された。

女子を含む完全普通選挙は戦後の昭和20年に実現した

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」6、7巻

○黒沢文貴著「大戦間期の宮中と政治家」(みすず書房)

○鳥海靖著「第一九代 原内閣」(林茂ほか編「日本内閣史録」2巻所収)

○原奎一郎編「原敬日記」(福村出版)5巻

○杉浦重剛記「致誠日誌」(明治教育史研究会編「杉浦重剛全集 6巻」所収)○田中光顕監修「聖上御盛徳録」(長野新聞)

○永積寅彦著「昭和天皇と私」(神道文化会)

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