欧州へ(1)日出ずる国の皇太子旗、大海原にひるがえる

【昭和天皇の87年】欧州へ(1)

日出づる国の皇太子旗、大海原にひるがえる

欧州へ(1)

大正10年3月、もうすぐ20歳になる裕仁皇太子は、丸刈りだった髪を伸ばし始めていた。

これから日本の皇太子として、初めて欧州各国に外遊するためである。

裕仁皇太子の外遊は、首相の原敬や元老の山県有朋ら、政府首脳が強く望んでいたことだった。

大正天皇の病状が、一段と悪化していたからだ。

大正天皇は生後間もなく髄膜炎を患い、その後も病弱で寝込むことが多かった。

貞明皇后との結婚後は大病もなく、地方巡啓を重ねるなど快活な生活を送っていたが、明治天皇の崩御で一変、公務に追われて心労が増え、大正7年末頃から歩行困難、言語障害などの変調がみられるようになる。

即位後、何事も先帝のようにと山県ら元老から厳しく諌言(かんげん)されていたことも、心身に悪影響を及ぼしたのだろう。

首相の原が日記につづったところでは、翌8年の秋頃には「簡単なる御勅語すら十分には参らず」という状況になってしまう。

回復の見込みはなく、もはや裕仁皇太子を摂政とするほかない。

その前に、世界の大勢について見聞を広め、各国元首らと直接交際し、五大国(※1)の一員となった日本の君主にふさわしい態度や思考を磨いてもらおうと、原や山県は考えた。

問題は、貞明皇后をどう説得するかである。

大正天皇を深く愛し、天皇の公務復帰を強く願う貞明皇后は、摂政設置を望まず、その布石としての皇太子外遊には頑として首を縦に振らなかった(※2)。

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