欧州へ(5) 皇太子、パリを楽しむ 忘れられないアルザスの小宴

欧州へ(5)

【昭和天皇の87年】皇太子、パリを楽しむ 忘れられないアルザスの小宴

 

1921(大正10)年5月29日、3週間にわたるイギリスでの滞在日程を終えた裕仁皇太子は、ジョージ五世やエドワード皇太子らに見送られてポーツマス軍港停泊の訪欧艦隊(旗艦鹿島と御召艦香取)に戻り、翌30日早朝、艦隊は錨(いかり)を上げた。

次の目的地は、フランスである。

ユニオンジャックがはためく9隻の英駆逐艦に護衛され、英仏海峡を航走する訪欧艦隊は、やがて前方の海上に5筋の煤煙が上がるのを見た。

出迎えに現れた5隻の仏駆逐艦だ。

午後3時すぎ、艦隊はフランス北西のル・アーブル港に入港。

仏軍将官や現地の県知事らが、両国国歌の演奏とともに裕仁皇太子を奉迎した。

特別列車でパリに着いたのは、翌31日である。

フランス訪問は非公式だったため、イギリスほどの大々的な歓迎セレモニーはなかったが、その分、裕仁皇太子はパリの街並みを、比較的自由に見学することができたようだ。

6月2日にエッフェル塔を視察した際には、婚約者の良子女王(のちの香淳皇后)へのお土産として塔の模型などを購入した(※1)。

5日にはサン・クルー公園を散策し、家族連れの市民らが遊んでいる様子に目を細めた(※2)。

9日にも《パリ市内を御散策になり、自由に買い物などをされる。

特にフォーブール・サン・アントワンヌ通百番地の著名な家具商メルシエ・フレールにおいては、陳列された各種家具・壁紙等を御覧の上、トランプ卓一脚をお求めになる》

(昭和天皇実録8巻27頁)

× × ×

一方、各界の著名人と懇談する晩餐会などでは、巧みな社交術を発揮したようである。

例えば6月6日、パリの名門劇場オデオン座で英仏親善の歌劇「マクベス」が初演を迎えた夜-。

主演の米人俳優ジェームズ・ハケットはミルラン仏大統領の観劇を求めたが、当日は日本大使館主催の晩餐会があり、大統領は裕仁皇太子との歓談を優先した。だが、供奉員から事情を聞いた裕仁皇太子は、晩餐会を早めに切り上げて大統領夫妻と一緒にオデオン座へ向かった。

この一件は翌日、ニューヨーク・ヘラルド紙のパリ版に「世界の四大強国の公式・非公式の代表者が芸術を媒介にして会した国際的な出来事」と好意的に報じられ、裕仁皇太子の配慮に感激したハケットは米大統領に打電して喜びを伝えたという。

イギリスに続きフランスでも、裕仁皇太子の人気が高まったのは言うまでもない。

× × ×

6月10~15日にベルギーを、15~20日にオランダを訪問した裕仁皇太子一行は再びパリに戻り、お忍びで市内観光や買い物などを楽しんでいる。

初めて地下鉄に乗ったのも、このときだ。

6月21日《パレ・ロワイヤル駅より地下鉄に御乗車、ジョルジュ・サンク駅にて下車され、それより自動車にて御泊所に御帰還になる。

なお、ジョルジュ・サンク駅にて御降車の際、切符をお持ちのまま同駅の改札を通過される。

御帰国後、御生涯を通じてこの切符を大切に保管される》

(昭和天皇実録8巻52~53頁)

× × ×

6月23日、フランス北東部のアルザス地方を訪れたときのことだ。

アラプティート都督の案内で、ある小村に立ち寄ったところ、村長から「祝杯の用意をしているので村民に光栄を与えてほしい」と懇請された。

裕仁皇太子は快く了承し、村長に導かれて役場内に入ると、そこには村民らの、手作りの歓迎準備が整っていた。

 昭和天皇実録が書く。

 《(裕仁皇太子は)用意された卓に御着席、村長は盃を挙げ、皇太子のお持ちの盃に触れて乾杯する。

それよりアルザスの民族衣装を纏(まと)った少女等が次々と同地方の菓子等を運び、屋外の村民はあるいは万歳を唱え、あるいは喇叭を吹き、あたかも地方の祭日の如き様相を呈す》

(8巻58~59頁)

 昭和天皇実録が続けて書く。

 《皇太子はアラプティート都督に対し、(この小村において受けた)奉迎は、忘れることのできないアルザスの思い出である旨を述べられ(この小村の)小学校児童のために寄付金御贈与の御沙汰あり》(8巻59頁)

 即位後、昭和天皇は常に国民の中に立とうとした。

国民が雨に濡れていれば、自身も傘をささずに同じ雨に打たれた。

その原点のひとつが、ここにあったのかも知れない。

 欧州歴訪の旅も終盤となり、裕仁皇太子は日に日に視野を広げていく。

中でも、のちの天皇としての思考に最も強い影響を及ぼしたのが、第一次世界大戦の激戦地、ベルギー・イープルとフランス・ヴェルダンの視察だった--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 随行取材していた時事新報特派員の後藤武男によれば、このときの買い物は予定外だったため、随行の供奉員らのほとんどが財布を持って来ておらず、後藤が一時立て替えたという

(※2) サン・クルー公園の散策で裕仁皇太子は供奉員らに「日本にはこのような場所がないね」などと感想を漏らした

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」8巻

○波多野勝著「裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記」(草思社)

○二荒芳徳、沢田節蔵著「皇太子殿下御外遊記」(大阪毎日新聞社、東京日日新聞社)

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