帰国 お帰りなさい、我らが皇太子よ- 摂政就任の機は熟した

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   【昭和天皇の87年】お帰りなさい、我らが皇太子よ- 摂政就任の機は熟した

 外遊も終盤を迎えた1921(大正10)年7月、裕仁皇太子はイタリアとローマ法王庁を訪問、各地で歓待を受けた。

 中でもイタリアの歓待は破格だった。

一行が上陸したナポリからローマまでの鉄道沿線上には、約50歩ごとに警護の哨兵が立ち並び、歓迎行事が行われるクイリナーレ宮殿前広場は群衆で埋め尽くされた。

その歓呼に応えて裕仁皇太子が宮殿のバルコニーに立つと-

 《群衆は、帽子・手巾等を振り、日本万歳、イタリア万歳、サヴォイア王家万歳等を叫んで盛んに歓呼し、整列する憲兵隊は捧銃の礼を行い、軍楽隊は君が代を奏す。

それより(裕仁皇太子は)バルコニーを退かれるものの、群衆の歓呼は止まず、よって再びお出ましになり、群衆の歓呼に報いられる》

(昭和天皇実録8巻100頁)

 なお、日本を出発する3月3日時点で、訪問国として確実に予定されていたのは英仏2カ国だけだった

外務省には各国大使館などから来訪要請が続々と寄せられていたが、裕仁皇太子への負担を懸念する宮内省は訪問国を増やすことに反対した。

外務省の希望によりイタリアなどが正式に追加されたのは、イギリス到着後の5月に入ってからだ。

 ところで裕仁皇太子の来訪を強く望んでいた国の一つに、アメリカがある。

 日米関係は当時、排日や軍縮など複雑な問題を抱えており、米大統領のハーディングらは、皇太子訪米が実現すれば友好修復につながると期待していた。

 

しかしこれには、駐米大使の幣原喜重郎が反対する。王室のないアメリカの歓迎態勢が、悪意はないにしても思わぬ摩擦を引き起こしかねないと懸念したのだ。

かつてエドワード英皇太子が訪米した際、米人の新聞記者が近づいて話しかけ、「野卑無礼ナル質問ヲ続発」したことを幣原は忘れなかった。

 結局、アメリカは訪問国から外された。

かわりに裕仁皇太子は外遊中、さまざまな配慮をみせている。

 戦跡視察の際に米軍戦死者の墓地を訪れて花輪を供え、米国国旗に敬意を表したり(※1)、ニューヨーク・ヘラルド紙の記者に「今回米国巡遊が出来ないことは、洵(まこと)に遺憾に堪へない。正義公道の為め、日米両国民の協力を期待する」と述べたりした。

 アメリカだけではない。

フランスを訪れていたスペイン皇帝と親交を深めるため、自ら予定を変更して2回にわたり会いに行った際には、抱擁の礼をもって迎えられた。

イタリアではチェコスロバキア大統領の突然の面会要請にも自らの意思で快く応じている。

 五大国の一角となりながら、少しも尊大なところのない裕仁皇太子は、どこへ行っても歓迎された。

皇室史上初となる皇太子の訪欧は、皇太子自身の人柄により、現代にも通じる皇室外交の扉を開いたといえるだろう。

× × ×

 同年7月18日、すべての日程を終えた裕仁皇太子は、熱烈な拍手に送られて御召艦香取に乗艦し、帰国の途に就いた。

 1カ月半に及ぶ航海の後、千葉県館山湾に帰国した裕仁皇太子を待っていたのは、沿岸を埋め尽くした数万の国民と、湾内に響きわたる万歳の連呼だ。

 9月2日、御召艦香取は湾内に停泊し、翌3日午前、横浜港に入港。純白の海軍礼装姿の裕仁皇太子が上陸するのを、黒山の人だかりが固唾をのんで見守り、港内はしんと静まった。

沈黙を破ったのは、意外にも外国人席から上がった「バンザイ」の一声である。

その途端、堰(せき)を切ったように数万の群衆が万歳を絶叫し、日の丸の小旗が破れんばかりに打ち振られた

 お帰りなさい、われらが皇太子よ-。翌日の新聞各紙には「御渡欧前よりも一層御快活」「一段と御立派」とする識者談話がずらりと並んだ。

 事実、裕仁皇太子は見違えるように成長していた。

横浜駅から御召列車に乗り、東京駅のホームに降り立った裕仁皇太子は、皇族、元老、政府首脳、両院議長、各界代表者らが出迎える中、各国大使の前に自ら歩み寄って握手を求め、「貴国で絶大な歓迎を受けたことを感謝します」と言葉をかけた。

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