摂政 東京駅の惨劇 暗殺された首相は、盤石のレールを敷いていた

摂政

【昭和天皇の87年】東京駅の惨劇 暗殺された首相は、盤石のレールを敷いていた

 裕仁皇太子の外遊が、大正天皇の病状悪化と関係していたことはすでに書いた。

首相の原敬や元老の山県有朋らは、裕仁皇太子の摂政就任を望んでおり、その前に、世界の大勢について見聞を広めてほしいと考えたのである。

 原や山県らの期待通り、裕仁皇太子は半年間の外遊で見聞を広め、天性の君徳を開花させて帰国した。

直後の大正10年9月7日、原は内大臣の松方正義に、こう提案している。

 「(摂政設置について)先づ元老諸公の議論を固め十月ともなれば挙行然るべし」

 天皇の職務を代行する摂政について、明治22年2月に裁定された旧皇室典範は「天皇久キニ亙ルノ故障ニ由リ大政ヲ親(みずか)ラスルコト能ハサルトキハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク」(19条2項)と規定しているが、適用された例はもちろんない。

しかも、当時の国民は大正天皇の病状について詳しく知らされていなかった。

 政府と宮内省は、徐々に天皇の病状を発表することにした。

 1回目は外遊前の9年3月30日、新聞各紙に掲載された発表文によれば、「(天皇は)御心神に幾分か御疲労の御模様あらせられ、且一両年前より御尿中に時々糖分を見ること之れあり、昨秋以来時々挫骨神経痛を発せらる」

 2回目は同年7月24日、「御疲労は依然事に臨みて生じ易く、御倦怠(けんたい)の折柄には御態度に弛緩(しかん)を来し、御発言に障害起り明晰(めいせき)を欠くこと偶々(たまたま)之あり」

 

外遊後の10年10月4日には、宮相の牧野伸顕らの主導で、幼少の頃の病歴も含め、より詳細な症状が発表された。

 「(最近は)通常御歩行の場合にも、側近者の扶助を要せらるゝことあり。

且御態度の弛緩及御発語の故障も近頃其度を増させられ、又動(やや)もすれば御倦怠起り易く、御注意力御記憶力も減退し…」

 国民に向けて、摂政設置もやむを得ないとする地ならしが進められる一方、皇族や枢密顧問官らへの根回しも周到に行われている。

牧野が各宮家を訪問して一人一人に直接理解を求めたほか、最後まで難色を示していた貞明皇后には、内大臣の松方が説得にあたった。

× × ×

 こうして、摂政就任の環境は整ったかにみえた。

だが、ここで思わぬ事件が発生する。摂政設置の旗振り役だった原が、暗殺されてしまうのだ。

 それは、一瞬の出来事だった。

 大正10年11月4日午後7時25分、人込みであふれた夜の東京駅。

原は、立憲政友会の大会が開かれる京都へ行くため、少数の側近らと改札口に向かって歩いていた。

その時、物陰から男が飛び出し、短刀を握りしめて原に体当たりした。

 短刀は、原の肺を破り、心臓にまで達した。ほぼ即死だった。

 

犯人の男は当時18歳の鉄道職員。

原内閣の融和的な外交方針や立憲政友会の汚職問題などに怒りを抱いていたとされる(※1)。

 東京駅はたちまちパニック状態となった。

しかし、急を聞いて駆けつけた妻の浅は毅然(きぜん)と振る舞い、涙ひとつ見せずに原の衣服の乱れを整えると、遺体を官邸に運ぼうとする側近らを制して言った。

「原が生きているあいだはお国のものですが、こうなったら私のものです」

 浅は自宅に遺体を運ばせ、そこではじめて、遺体に取りすがって泣き崩れた。

× × ×

 衆議院議員として初めて首相になり、平民宰相の名で親しまれた原は、抜群のバランス感覚をもった政治家だった。

 新聞記者から外務官僚に転身し、陸奥宗光に才能を見いだされて通商局長や外務次官を歴任。

退官後は大阪毎日新聞社長を務め、伊藤博文が立憲政友会を結成すると入党して幹事長になった。

やがて総裁となり、党勢拡大を図る一方、西園寺公望内閣の内相などとしても活躍する。

 大命降下は7年9月。

米騒動の責任をとって総辞職した寺内正毅内閣にかわって本格政党内閣を組織し、国内鉄道網の整備や高等教育機関の拡充などに尽力した。

外交では対華21カ条要求で悪化した中国との関係改善を進めている最中だった(※2)。

 原の政治手腕は、政党嫌いで知られる山県有朋も高く評価していた。

悲報に接した山県はショックで体調を悪化させ、「原と云ふ男は実に偉い男であつた、あゝ云ふ人間をむざむざ殺されては日本はたまつたものではない」と嘆いたという。

 

裕仁皇太子の摂政就任を主導した原だが、大正天皇への敬慕の念も厚く、日記の節々に尊皇の誠をつづっている。

暗殺されなければ、いずれ内大臣などとなり、裕仁皇太子を支えたことだろう。

 ともあれ、原が用意周到に敷いたレールは、死後も盤石だった。

 10年11月25日、皇族会議と枢密院会議が開かれ、裕仁皇太子の摂政就任が全員一致で議決された。

 裕仁皇太子、20歳の秋である。

× × ×

 外遊で見聞を広め、摂政となった裕仁皇太子が最初に取り組もうとしたのは、女官制度の改革だ。

 天皇や皇后の身の回りの世話をする女官は主に華族出身の未婚女性が務め、生涯を御所の中で過ごす一生奉公だった。

伝統と格式のある世界だが、現代的視点からみれば非人間的といえなくもない。

 摂政就任から間もない11年1月28日、裕仁皇太子は宮相の牧野を呼んで言った。

 「自分の結婚も其内行ふ事とならんが、それに付特に話して置き度く考ふるは女官の問題なり、現在の通り、勤務者が奥に住込む事は全部之を廃止し日勤する事に改めたし」(※3)

 新しい時代にふさわしい宮中制度の改革は、かねて牧野も考えていたところである。

ただ、万事に慎重な牧野は、裕仁皇太子の提案を頼もしく思いながら、軽々しく賛同することはしなかった。

 宮中の伝統と慣習を重んじる貞明皇后が反対することが、目に見えていたからだ。

女官制度の改革は、裕仁皇太子の結婚を待たねばならない。

11年6月20日《裕仁親王は摂政として(良子女王との結婚の勅許を仰ぐ奏請書を)御裁可になり、勅許書に天皇御名並びに摂政名を御署名になる》(昭和天皇実録9巻79頁)

 ここに結婚が正式に決まり、同年9月28日には一般の結納にあたる納采ノ儀が行われた。

結婚予定日は翌12年11月。

その日が来るのを、裕仁皇太子は待ちわびたことだろう。

 だが、結婚を目前にして、非常事態が発生する--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 暗殺犯の中岡艮一(こんいち)は無期懲役の判決を受けたが、3回の恩赦で昭和9年に出獄するなど、事件の背景には不可解な点もある

(※2) 原敬内閣については、政党特有の利益誘導政治を生み出したとする批判もある

(※3) 牧野の日記によれば裕仁皇太子はこのとき、「一生奉公は人間が愚鈍になるばかり」とし、世間を知らない女官に囲まれた生活では、近く迎える皇太子妃や皇子たちにも悪影響があると指摘。

また、「子供も出来るとすれば此までの如く他へ預ける事は不賛成なり」と話したという

【参考・引用文献】

○原奎一郎編「原敬日記」(福村出版)5巻

○古川隆久著「大正天皇」(吉川弘文館)

○牧野伸顕記、伊藤隆ほか編「牧野伸顕日記」(中央公論社)

○志賀節著「原敬夫人遺聞」(平成10年10月13日付「自由新報」所収)

伊藤之雄著「山県有朋-愚直な権力者の生涯」(文芸春秋)

○茶谷誠一著、日本歴史学会編「牧野伸顕」(吉川弘文館)より

○甘露寺受長著「背広の天皇」(東西文明社)

○宮内庁編「昭和天皇実録」9巻

 

 

コメントを残す

サブコンテンツ

i2i


サイト内ランキング



アクセスカウンター


my日本

忍者画像人気記事


このページの先頭へ