関東大震災(1) 焦土と化した帝都 数万の遺体を焼く炎が、夜空を赤く染めた NO.1

【昭和天皇の87年】焦土と化した帝都 数万の遺体を焼く炎が、夜空を赤く染めた NO.1

 

関東大震災(1)

 2万5千人近くの死者・負傷者・行方不明者を出した平成23年3月11日の東日本大震災。

首都圏でも最大震度6強を観測した同日午後2時46分に、自分がどこで何をしていたか、いまも多くの人が覚えているだろう。

 この「3・11」が起きるまで、東日本で震災といえば「9・1」だった。

 その日―、大正12年9月1日午前11時58分。

穏やかな土曜日の帝都を、震度6の烈震が襲った。

 神奈川県・相模湾北西を震源とするマグニチュード7・9の巨大地震。

関東大震災である。

 レンガ造りの建物はことごとく倒壊し、木造の家屋は火炎に包まれた。

盛り場も下町もすべて壊滅。地獄と化した帝都の惨状は、当時の新聞に克明につづられている。

 「全市火の海と化す 死傷何万あるやも知れず」

 「帝都は見渡す限り焦土 此世ながらの地獄」

 「死に面して たゞ救援を待つ幾百万の罹災民」

 「二十万の横浜市民 既に飢餓に瀕す」

 「患者五百名 悉(ことごと)く焼死 娼妓六百名も」

 「漂流死体 河面を掩(おお)ふ 悽惨極まる大川筋」

 「罹災者 頻(しき)りに自殺す 飢餓と疲労と絶望で…」(※1)

 震災による死者は東京、神奈川、千葉を中心に10万5千人以上。

倒壊、焼失、流出家屋37万棟以上。

被害総額は当時の国家予算の4~7倍にあたる55~100億円に達した。

× × ×

 地震発生時、裕仁皇太子は皇居で政務中だった。

 昭和天皇実録によれば《突如上下の大きな揺れが起り、震動甚だしく、皇太子は直ちに西一ノ間より前庭に避難される。

強震が相次ぎ、轟音とともに正殿は動揺し、硝子・障子の軋(きし)む音にて、一時は凄然たる有様となる》(10巻112頁)。

 

皇居も被害を受け、裕仁皇太子は赤坂離宮に避難して政務をとった。

夜になると被災者が皇居二重橋外苑に殺到したため、門を開いて主馬寮広場に収容するとともに、芝離宮、高輪東宮御所、新宿御苑などを被災民救済のために開放した。

 栃木県の日光田母沢御用邸に滞在していた大正天皇と貞明皇后は無事だった。

しかし皇族でも、山階宮武彦王妃佐紀子女王、東久邇宮家の師正王、閑院宮家の寛子女王が建物倒壊により薨去(こうきょ)した。

 その日から数日間、帝都の夜空は赤く染まった。

火災がおさまっても、あちこちに立ちのぼる炎が消えることはなかった。

数万の遺体を焼く炎だった。

帝都は、巨大な墓場と化していた。

× × ×

 未曾有の国難である。

裕仁皇太子は連日、政府や軍部から刻々ともたらされる報告を聞き、摂政として、戒厳令の発令など重要案件を裁可した。

 実は震災発生時、政府の対応は十分ではなかった。

8月24日に首相の加藤友三郎が急死し、司令塔が不在だったからだ。

後継の山本権兵衛内閣が発足するのは震災翌日の夕方である。

 こうした中、積極的に動いたのが宮中だった。

余震と火災の続く被災地に3日以降、裕仁皇太子の指示で次々と侍従が派遣され、天皇と皇后の名の下に罹災者を慰問。

さらには(1)糧食の配布と炊き出し(2)土地・建物の無料使用許可(3)建築用材の下賜(4)木綿綿入の下賜-など、矢継ぎ早な救援策が打ち出された。

 特筆すべきは裕仁皇太子の母、貞明皇后の動きだ。

自身は日光で療養生活を送る大正天皇のそばを離れられなかったが、日々寄せられる情報をもとに、被災地では重傷者の救助が優先され、婦女子の救助が手薄になっていると判断。

とりわけ小児科医と産科医が不足しているとし、宮内省直轄の巡回救療班を組織することにしたのだ。

 

皇后直命の巡回救療班は各班3人の医師(小児科、産科、内科)と5人の看護婦(うち1人は助産婦)で9月13日に編成され、翌日から無料往診などを開始。

最終的に9班体制となり、翌年3月25日まで半年間にわたり活動した(※2)。

貞明皇后実録によれば、同班が東京と横浜で治療した被災者は計22万4300人余に上る。

 聡明かつ気丈な性格で知られる貞明皇后は、大正天皇の病状が安定した9月29日に単独で上京し、巡回救療班を視察して陣頭指揮もとっている。

× × ×

 一方、摂政である裕仁皇太子が被災地を直接視察したのは、貞明皇后より前の9月15日だ。

 その日、裕仁皇太子は関東戒厳司令官や侍従武官長とともに、乗馬で市ケ谷、水道橋、上野、日本橋などを見て回り、途中で内相や警視総監から状況報告を受けた。

東京市長に対しては、傷病者らの救護は十分か、配給などは行き届いているかと、自らたずねた。

 目の前には、焼け野原が広がっている。

粗末なバラックが立ち並び、その中で、家屋を失った被災者が不安に震えている。

裕仁皇太子の胸は痛み、目に涙があふれた。

 翌16日、宮相の牧野伸顕を呼んで言った。

 「被害状況を見聞するにつれ、日に日に心が痛むばかりだ。今秋は自分の結婚が行われることになっているが、このまま準備を進めるのは忍びない。結婚は延期したいと思う」

 それより前、東京市議会などでは、非常時であっても予定通り挙式してほしいと宮内省などに陳情していた。

しかし裕仁皇太子は、国民と辛苦を分かち合いたかったのだ。

 牧野は、裕仁皇太子が挙式の日を楽しみにしていたことを知っている。

それを自発的に延期したことに、胸を熱くした。

 裕仁皇太子は18日にも被災地を視察。

台風接近で暴風雨となった24日には、バラックに仮住まいしている被災者のことを夜通し心配し、翌朝、東宮侍従長の入江為守を呼んで言った。

 「バラックの人たちは、昨夜はどんな様子だっただろう。

入江、内務省に行って、よく状況を聞いてきておくれ。

公式に行くと先方に迷惑がかかるかもしれないから、非公式に聞いてきておくれ」

× × ×

コメントを残す

サブコンテンツ

i2i


サイト内ランキング



アクセスカウンター


my日本

忍者画像人気記事


このページの先頭へ