第78回 内親王薨去 悲しみの初節句 天皇と皇后の祈りは届かなかった

【昭和天皇の87年】悲しみの初節句 天皇と皇后の祈りは届かなかった

第78回 内親王薨去

昭和初期の試練-。

それは、若い天皇の私生活にも及んだ。

金融恐慌がおさまって5カ月余り、昭和2年9月10日に香淳皇后が第2皇女を出産した。

昭和天皇の喜びは大きく、祐子(さちこ)と命名し、久宮(ひさのみや)の称号をおくった。

だが、その喜びは長くは続かなかった。

香淳皇后の母乳で順調に発育していた祐子内親王が発熱したのは翌3年2月27日。

咽頭カタルと診断され、大事に至らないとみられていたが、熱は下がらず、3月5日に容体が急変した。

その前日から昭和天皇も風邪をひき、39度の高熱で病床にあった。

しかし、知らせを受けて気が気でなく、祐子内親王を何度も見舞った。 

以下、昭和天皇実録が書く。

 6日午前《(昭和天皇は)侍医筧繁をお召しになり、祐子内親王と御対顔になりたき旨を仰せになり、(中略)寝衣に掻巻を掛けられ運搬車に御臥のままの御姿勢にて祐子内親王の病室にお成りになり、十時二十三分より十分余り内親王を見舞われる》(15巻30頁)

 7日未明《(昭和天皇に)睡眠困難の御様子が見られる。

側近は祐子内親王の病状への御心痛と拝察し、侍医からは睡眠剤を進める》(同頁)

 

この間、香淳皇后は病床に連日つきっきりで看病したが、祈りは届かなかった。

 8日午前《三時三十分、祐子内親王の病勢は益々増進し、遂に危篤に陥る。

皇后は御自らの母乳を綿に浸し、幾度となく内親王の口の中にお移しになる。

午前三時三十八分、心臓麻痺により祐子内親王は薨去する》(同巻31頁)

× × ×

赤坂離宮の一室には、30種類のひな人形が飾られていた。

3月3日の初節句を祝うため、天皇と皇后が選んで買ったひな人形だった。

 13日、祐子内親王を皇族専用の豊島岡墓地(※1)に埋葬する日、昭和天皇と香淳皇后は、棺を乗せた霊車が赤坂離宮から出て行くのを、肩を寄せ合って見送った。

 《この日は午前より天気晴朗にて、天皇は終始無言のまま、霊車の行方をその影が消えるまで凝視し続けられ、皇后は傍らにあり絶えず涙をお拭いになる》(同巻34~35頁)

 

祐子内親王を助けられなかったことに、侍医ら関係者は責任を感じ、悲痛な思いでいたことは言うまでもない。

だが、皇后宮大夫の河井弥八が14日に拝謁し、恐懼(きょうく)に堪えないと声を震わせたとき、昭和天皇は静かに言った。

 「今回のことは残念に思うが、大夫はじめ一同がベストを尽くしてくれたことは、満足に思っている。

このことを一同にも伝えておくれ」--(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 東京都文京区大塚にある皇族専用墓地。有栖川宮威仁親王、伏見宮貞愛親王、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王ほか明治以降に薨去した皇族が埋葬されている

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」15巻

○昭和3年2月25日の東京朝日新聞

○河井弥八記、高橋紘ら編「昭和初期の天皇と宮中〈侍従次長河井弥八日記〉2巻」(岩波書店)

 

 

 

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