第80回 山東出兵 : 中国・済南で起きた日本人虐殺事件 天皇の危惧が現実化した

【昭和天皇の87年】中国・済南で起きた日本人虐殺事件 天皇の危惧が現実化した

第80回 山東出兵

 孫文の死後、中国南部の広東を根拠地とする国民革命軍が全国統一に向け、北方の軍閥政府を倒す北伐を開始したのは1926(大正15)年の夏である。

 当時の外相、幣原喜重郎は内政不干渉政策を貫き、外国人保護を目的とするイギリスからの派兵提案にも応じなかったが、政権交代後の昭和2年5月、首相兼外相の田中義一は、

山東省青島の邦人保護のため陸海軍の派兵を断行。

7月には兵力を増派して山東省済南に進出した。

山東出兵である(※1)。

 大元帥となって初の本格的な海外派兵。

平和を念願する青年君主は苦悩した。

昭和天皇実録が書く。

 7月8日《参謀総長鈴木荘六参殿につき謁を賜い、第十師団主力等の青島派遣に関する上奏を受けられる。

なお参謀総長拝謁後、(中略)天皇は暫時沈思された後、(侍従武官の蓮沼蕃に)撤兵についての考慮の有無、及び尼港(にこう)事件の如き事態は発生しないかとの懸念につき御下問になる》(14巻92頁)

 尼港事件とは、大正7~11年のシベリア出兵の際、ニコラエフスク港(尼港)に駐屯する

日本軍部隊と在留邦人、一般住民ら数千人がソ連のパルチザン部隊に虐殺された事件だ。

昭和天皇は、山東出兵で中国との軋轢(あつれき)が深まり、第二の惨事が起きることを危惧したのである。

× × ×

 その危惧は、1年足らずで現実化する。

 

翌3年5月1日、国民革命軍は済南に進出し、日本側に「治安維持は保障するので日本軍の防御設備を撤去してほしい」と要請した。

これを受けて日本軍が2日夜に防御設備を撤去すると、3日朝から邦人居留地で略奪が始まったのだ。

 邦人保護に動く日本軍は国民革命軍と各地で衝突、やがて済南を占領するが、その間に邦人社会が受けた被害は大きかった。

 このとき、中国側に惨殺された邦人の状況について、外務省が以下のような電報を発している。

 「腹部内臓全部露出セルモノ 女ノ陰部ニ割木ヲ挿込ミタルモノ 顔面上部ヲ切落サレタルモノ 右耳ヲ切落サレ 左頬ヨリ右後頭部ニ貫通突傷アリ 全身腐乱シ居レルモノ各一 陰茎ヲ切落シタルモノ二…」

 山東出兵がなければ、被害はさらに拡大したことだろう。

その一方、山東出兵によって日中関係がますます険悪化したことも事実だ。

日本の国内世論は中国側の蛮行に激高し、中国の国内世論は日本側の横暴に憤慨した(※2)。

 昭和天皇の苦悩は、一段と深まったに違いない。

 内外ともに混迷の度を増す中で、昭和天皇の即位の礼が行われようとしていた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 1926~27年の北伐で、国民革命軍が南京に入城した際、日本を含む各国の領事館や居留地を襲撃する南京事件が発生。

多大な被害が出たにもかかわらず日本政府は邦人保護に努めなかったとして、幣原外交を糾弾する声が噴出したことも、田中政権が山東出兵に踏み切る要因となった

(※2) 山東省済南で起きた日中両軍の衝突で中国側は、済南交渉公署の中国人外交官や職員ら計16人が日本軍に虐殺され、銃剣で耳や鼻をそぎ落とされたと国内外に喧伝、反日世論をあおった。

これに対し日本軍は、戦闘中に済南交渉公署の建物を捜索したところ、潜伏していた私服の便衣兵などから射撃されたため、建物内の16人を殺害したことは認めたものの、

銃剣で耳や鼻をそぎ落としたというのは中国お得意の宣伝工作であり、そもそも銃剣でそんなことはできないとして、虐殺については否定した

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」14巻

○海軍軍令部第3班作成「済南事変ノ真相」(防衛省防衛研究所所蔵)

○昭和3年5月9日午後10時40分発電送「済南事件邦人惨殺状況」(外務省外交史料館所蔵)

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