第82回 張作霖爆殺事件 : 満州王を爆殺! 疑惑の目は、関東軍に向けられた NO.1

【昭和天皇の87年】第82回 張作霖爆殺事件

満州王を爆殺! 疑惑の目は、関東軍に向けられた NO.1

2018.12.23 07:00

 

 1928(昭和3)年6月4日早朝、北京から奉天に向け、満州の荒野を走る特別列車の展望車内。

灰色の大元帥服をまとい、座席に深く腰を落とした張作霖の表情は、憂いに満ちたものだった。

 弱体化した中央政府の政争に乗じて北京に進軍し、陸海軍大元帥に推戴(すいたい)されたのは前年6月のこと。

馬賊の頭目だった張は日本の支援を得て急成長し、中国の国家元首を名乗るまでに上りつめたが、得意の絶頂は1年しか続かなかった。

蒋介石の北伐軍が北京に迫り、これと決戦すれば敗北必至とみられたため、満州に退却することになったのだ。

 「大支那平定の夢破れ 張氏遂に北京を引揚ぐ 名残を惜みつゝ悲痛な沈黙」と、前日未明に北京駅を出発した張の様子を大阪朝日新聞が書く。

 張が乗る特別列車は30余両の長蛇編成。

貴賓車4両と展望車、食堂車、寝台車各1両が張専用の車両で、前後の車両には完全武装の護衛兵が乗り込んだ。

鉄道襲撃のテロや強盗が横行していた時代だ。

警備は厳重を極め、張がどこにいるのか分からないよう窓のブラインドはすべて下ろされた。

 4日午前5時20分、特別列車は速度を落とした。

間もなく終着駅の瀋陽(現遼寧省瀋陽市)に到着する。

張は表情を改めた。出迎えの高官らに失意の心中を読み取られてはならない。

張はまだ、「大支那平定の夢」をあきらめていなかった。

 だが、憂いの消えた表情を、誰にも見せることはできなかった。

 

特別列車が満鉄線と交差する陸橋ガードをくぐったときだ。

轟音(ごうおん)とととも展望車の屋根が吹き飛び、爆風が張の顔面を削り取った。

瀕死(ひんし)の張は奉天城内の私邸に運び込まれたが、手の施しようがなく絶命、53年の波乱の生涯に幕を閉じた。

× × ×

 満州の覇王が爆殺されるという非常事態。

張の側近らは狼狽(ろうばい)し、張の死は極秘にされた。

後継争いに日本が介入してくることを恐れたのだ(※1)。

 奉天側と日本側の合同調査の結果、損傷の激しい展望車後方か食堂車前方、あるいは現場の陸橋ガード下に仕掛けられた高性能火薬が、電気仕掛けで爆発したものと推定された。

 犯人は不明だが、現場近くで爆弾を持った中国人2人を関東軍の部隊が刺殺して調べたところ、彼らが北伐軍関係者の書類を持っていたため、関東軍は陸軍中央に「南方派ノ便衣隊ラシキモノ行進中ノ列車ヲ爆破セル…」と打電した(※2)。

 ところが半月後、事態は急転する。

大陸浪人の工藤鉄三郎が鉄道相の小川平吉に宛てて、関東軍の謀略を示唆する報告書を送ってきたのだ。

 「(関東軍の)某大佐は工兵中尉某氏をして満鉄線(陸橋)下の右側に弐個、左側に壱個の爆弾を装置せしめ(瀋陽駅に向つて)其の電線を展望台まで延長して同所に於て爆破せしめん準備を了せり…」

 

「…張作霖氏の座乗せる貴賓車が(満鉄線と交差する陸橋下の)クロースに入るや電流を通ぜし為め、一大爆音と共に黒煙濛々として立つ上り、遂ひに張作霖氏(中略)の死を見るに至れるものなり…」

 報告書にある某大佐とは、関東軍高級参謀の河本大作。

このほか報告書には、河本が張作霖爆殺の首謀者であること、爆殺を南方便衣隊の仕業に見せかけるため、「命の入らぬ支那人三名」を招き寄せ、うち2人を現場近くで刺殺、「其の死体に亀甲型爆弾と爆破決行を促したる文書を差し入れ」たことなど、事件の全貌が記されていた。

 報告書を書いた工藤は、のちに満州国の陸軍中将(宮内侍衛処長)となるほどの有能な男だ(※3)。

当時は小川系の大陸浪人として満州情勢をしばしば報告しており、その内容の信憑性は高かった。

 小川から報告書を見せられた首相の田中義一は頭を抱えた。

発覚して国際問題となれば、首相の椅子が吹っ飛びかねない。

 だが、嫌疑を受けて陸軍中央に呼び出された河本は、頑として自身の関与を否定した。

陸軍中央も深く追求しようとせず、田中に「関東軍は無関係」と報告した。

× × ×

 一方、事件からほぼ20日後、昭和天皇の最側近である内大臣の牧野伸顕のもとに、元内相の後藤新平から「張作霖暗殺は確かに邦人なりとの確説を得たり、果して然らば実に容易ならざる影響を及ぼすべし」との情報がもたらされた。

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