第83回 張作霖爆殺事件(2):覆された首相の決心 天皇は激怒し、辞表提出を求めた NO.1 

【昭和天皇の87年】覆された首相の決心 天皇は激怒し、辞表提出を求めた NO.1

第83回 張作霖爆殺事件(2)

 1928(昭和3)年6月4日に満州の瀋陽(現遼寧省瀋陽市)で起きた張作霖爆殺事件-。

中国東北部に覇をとなえ、満州王とまで呼ばれた張が列車ごと吹き飛ばされた衝撃のテロルは、現在も謎の多い事件とされる。

 平成17年に刊行され、世界的なベストセラーとなった毛沢東の伝記「マオ-誰も知らなかった毛沢東」(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著)の中に、爆殺はソ連特務機関の陰謀であり、

日本軍の仕業に見せかけたとするロシア人歴史家らの分析が紹介されたことで、近年も議論になったほどだ(※1)。

 だが、ソ連の陰謀が同時並行で進んでいたかどうかは別として、関東軍高級参謀の河本大作が爆殺計画を立案し、実行に移したことは間違いない。

 河本は事件当初、自身の関与をかたくなに否定したが、やがて東京帝大史料編纂官だった森克己(かつみ)に対し、存命中の非公開を条件にこう語っている。

 「支那軍というものは、いわば親分子分の関係のものであるから、親分さえ斃(たお)してしまえば、子分は自ら散り散りになってしまう。

この緊迫した際のとるべき手段としては、先ず親分たる張作霖を斃して彼等の戦意を挫(くじ)くより外(ほ)かに途はなしとの結論に到達した…」

× × ×

 一方、張作霖爆殺に関東軍が関与した疑いがあるとの情報を得ながら、事件解明に後ろ向きだった田中義一内閣がようやく本格調査に乗り出したのは、発生から3カ月後の昭和3年9月以降である。

 

 首相の田中は、どう対処すべきか最初は分からなかったのだろう。

ある日、元老の西園寺公望をひそかに訪ねて聞いた。

 「(犯人は)どうも日本の軍人らしい」

 西園寺は答えた。

 「万一にもいよいよ日本の軍人であることが明らかになつたなら、断然厳罰して我が軍の綱紀を維持しなければならぬ」

 田中「御大典(即位の礼)でも済んだらなんとか致しませう」

 西園寺「陛下にだけは早速行つて申上げて置け」(※2)

 この一言が田中をして、重い腰を上げさせたようだ。

陸相に指示して憲兵司令官を現地に派遣したほか、9月22日に外務省、陸軍省、関東庁(※3)の担当者らで構成する調査特別委員会を設置し、10月中に報告書を作成するよう命じている。

 10月23日、調査特別委で関東庁から、事件は関東軍高級参謀の河本が計画し、実行したことを裏付ける報告があった。

同月8日に帰国した憲兵司令官も、河本の犯行とする調査結果を提出。関東軍の関与がいよいよ明白となった。

 となると問題は、河本ら関係者を処罰し、事件を公表するかどうかだ。

田中は、公表に反対する鉄道相の小川平吉に言った。

 「自分は張作霖事件の犯行者を軍法会議に付し、軍紀を振粛するつもりだ。

大元帥(昭和天皇)の陸軍にこのような不都合があるのは許されない。

また、このような重大事件を陛下に上奏しないのは聖明を覆い奉るに等しい。

自分は断固として決心した」

 

それから2カ月後、即位の礼が終わり、万歳の嵐も静まった12月24日、田中は参内し、昭和天皇の前に立った。

 「張作霖事件には遺憾ながら帝国軍人が関係しているようです。

鋭意調査中ですが、事実であれば法に照らして厳然たる処分を行います」

× × ×

 昭和天皇は、関東軍の謀略を嘆きつつ、田中の厳罰方針に深くうなずいた。

 すでに満洲では関東軍犯行説が朝野に広まっており、うやむやにすれば国家ぐるみの陰謀と見なされかねない。

一時的に海外の対日感情が悪化するにせよ、事実を公表して関係者を厳罰処分し、再発防止への強い決意を示す方が、長期的にみて日本への信用につながる。

厳罰方針は、元老の西園寺をはじめ昭和天皇を支える宮中側近、重臣らに共通するものだった。

 何より、軍紀の弛緩が心配だ。

処置を誤れば過激な中堅将校らが増長し、第二、第三の謀略事件を誘発する恐れもある。

 治安維持法の厳罰化などをめぐり田中への不信を強めていた昭和天皇だが、このときばかりは田中に期待したことだろう。

× × ×

 だが、田中の「決心」は長く続かなかった。

独断で奏上したことに閣僚の多くが反発し、陸軍も事実公表には絶対反対と抵抗したため、迷走してしまうのである。

翌年1月から始まった帝国議会でも、関東軍関与の情報をつかんだ民政党が「満洲某重大事件」として政府を攻撃、田中は四面楚歌に陥った(※4)。

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