第84回 張作霖爆殺事件(3):渦巻く「宮中の陰謀」説 天皇はなぜ、一線を越えたのか NO.1

【昭和天皇の87年】渦巻く「宮中の陰謀」説 天皇はなぜ、一線を越えたのか NO.1

第84回 張作霖爆殺事件(3)

 関東軍の高級参謀が主導した張作霖爆殺事件が、日中関係にもたらした負の遺産は、あまりに大きかったといえよう。

 関東軍の狙いは満州を中国から分離し、親日的な政権に善政を布かせて日本の権益を保護、拡大することだった(※1)。

しかし張作霖は関東軍の支援下で力を蓄えると、中国統一の野望を膨らませて満州から飛び出してしまう。

そこで張を爆殺したわけだが、結果は、まるで逆効果だった。

 関東軍の一部は張の死後、混乱に乗じて軍事行動を起こし、後継者選びなどに介入するつもりでいた。

しかし、張の死が極秘にされたため思うような混乱とならず、軍事行動の機を逸してしまう。

張の長男で後継最有力だった張学良は、事件後も父のサインを真似た命令書を発出し、父の存命を装った。

 張の死が公表されたのは事件から半月余り経った1928(昭和3)年6月21日、学良の後継体制が固まってからだ。

 学良は、父を殺した日本を激しく憎んだ。

やがて関東軍が求める満州分離ではなく、関東軍が恐れる中央帰属、すなわち蒋介石の国民党政府と合同する道を選ぶ。

張作霖が存命なら、あり得ない選択肢だろう。

 

 年の瀬も迫った12月29日、満州各地に青天白日満地紅旗が一斉にひるがえった。

国民党政府の旗(現在の中華民国〈台湾〉国旗)だ。

世にいう「易幟(えきし)」である(※2)。

以後、満州の排日活動は激化し、事態打開のために関東軍の一部は第二の謀略を画策するようになる。

× × ×

 一方、関東軍を厳罰に処すことができず、昭和天皇の怒りを買って田中義一内閣が総辞職したことは、宮中にも暗い影を落とした。

天皇が首相に辞表提出の意思を問うのは、立憲君主の枠から逸脱した非常手段といえる(※3)。

田中に近い政軍高官らは宮中への不信を抱き、昭和天皇を取り巻く重臣たちの陰謀だと騒ぎ立てた。

 田中内閣の鉄道相だった小川平吉は「宮中の事情ほゞ世上に漏洩(ろうえい)し、宮中の陰謀に対して憤慨するもの少なからず」と書き残している。

 「宮中の陰謀」説まで飛び出した事件後の軋轢(あつれき)-。

昭和天皇はどう思っていたか。

先の大戦後、側近らにこう語っている。

 --この事件の主謀者は(関東軍高級参謀の)河本大作大佐である。

田中総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積(つもり)である、と云ふ事であつた。

 

--然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つた。

 --そこで田中は再ひ私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。

それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。

 --こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云ひ方をした。

それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。

 --田中内閣は右の様な事情で倒れたのであるが、田中にも同情者がある。

久原房之助などが、重臣「ブロック」と云ふ言葉を作り出し、内閣の倒(こ)けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至つた。

 --かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とか云ふ、いやな言葉や、これを間(真)に受けて恨を含む一種の空気が、かもし出された事は、後々迄(まで)大きな災を残した。

かの二・二六事件もこの影響を受けた点が少くないのである--

 以上は昭和21年3月に側近が記録した「昭和天皇独白録」の抜粋である。

長く引用したのは、ここに昭和天皇の、先の大戦まで続く苦悩の根源が垣間見えるからだ。

 

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