第85回 金解禁と軍縮(1)統帥権干犯問題をあおる野党 党利党略が国家を危うくした NO.1

 

【昭和天皇の87年】統帥権干犯問題をあおる野党 党利党略が国家を危うくした NO.1

第85回 金解禁と軍縮(1)

 昭和4年7月2日、張作霖爆殺事件の処理を誤り総辞職した政友会系の田中義一内閣にかわり、民政党系の浜口雄幸内閣が発足した。

浜口は田中の強行積極政策を一変し、外相に幣原喜重郎を起用して国際協調路線を、蔵相に井上準之助を起用して緊縮財政路線を推進する。

 昭和天皇は、新内閣の発足を喜んだ。

内大臣の牧野伸顕が組閣時の日記にこう書いている。

 「御召しに伺候したるに、(組閣)名簿を見よとの難有(ありがたき)御思召なり。

良い顔触れなりと御満足なり」

× × ×

 浜口内閣が掲げた内政上の重要課題は、金解禁だ

第一次世界大戦中、主要各国は金の国外流出を防ぐため、金本位制(※1)を一時的に停止し、金の輸出を禁止した。

大戦後間もなく、各国は金本位制を復活して輸出を解禁したが、日本は関東大震災の影響もあり対応が遅れていた。

 円の価値を低下させずに金解禁を行うには、緊縮財政により正貨(金貨及び金地金など)を蓄積しなければならない。

蔵相の井上は予算の大幅カットと公務員給与の1割減額を打ち出した。

 

昭和天皇は、この政府方針に進んで協力しようとする。

 昭和4年10月23日《侍従次長河井弥八をお召しになり、皇室費百万円減額の思召しを伝えられ、その可否を御下問になる》

(昭和天皇実録16巻147頁)

 だが、給与カットに公務員が猛反発して政治問題化したため、政府は方針を撤回。

河井ら側近は《政情を踏まえ、皇室費減額は見合わせを願う》ことにした。

すると昭和天皇は同月28日、宮相の一木喜徳郎を呼んで言った。

 《「初声御用邸ノ建築ハ目下ノ経済界ノ状況ニ鑑(かんが)ミ当分延期セヨ 尚宮内省ニ於テモ充分整理緊縮方針ヲ徹底セヨ」》(同巻150頁)

 神奈川県の三浦半島南端に建設予定だった初声御用邸は、東京に近く海洋生物の採集にも適しており、昭和天皇は着工を心待ちにしていた。

それを自ら延期したことに、河井ら側近は心を打たれた。

 さらに11月12日、《従来慣行の皇族との御贈答並びに臣下への贈与に関し、国を挙げての財政の整理緊縮、消費経済の節約・合理化の折から、国民生活を質実ならしめるため率先して簡約すべしとの思召しにより、恒例の御贈答の廃止を御治定になる》(16巻160頁)

 以後、宮内省は節約に省を上げて取り組む。

× × ×

 

一方、浜口内閣の外交上の重要課題は、ロンドン海軍軍縮会議だ。

 それより前、1921(大正10)年11月から翌年2月にかけ、米ワシントンで初の軍縮会議が開かれたが、アメリカ主導で決められた国際新秩序は、日本にとって喜ばしいものではなかった。

 この会議で、日本の安全保障政策の基軸だった日英同盟が解消され、日本が対米70%を主張した戦艦など主力艦の保有比率も60%しか認められなかった。

以後、日本は巡洋艦や潜水艦など補助艦の新造を進め、かえって建艦競争が激化する。

 そこで行われたのが、補助艦保有を抑制する1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮会議である。

昭和天皇は、この会議が平和につながると期待した。

 同年3月27日、昭和天皇は《御学問所において内閣総理大臣浜口雄幸に謁を賜い、ロンドン海軍軍縮会議の経過大要及び本問題解決に関する所信について奏上をお聞きになる。

それより浜口に対し、世界の平和のため早くまとめるよう努力せよとの御言葉を賜う》(17巻40頁)

 だが、交渉は難航した。

日本側が対米70%の補助艦保有比率を求めたのに対し、米側は62%を提案、双方の隔たりはあまりに大きかった。

結局、69・75%で妥協点に達したが、主力となる重巡洋艦が約6割に抑えられたため、海軍軍令部は「7割でなければ国防上責任が持てない」と猛反発。

政府の決定が上奏される前に軍令部長が反対意見を上奏しようとしたのを、侍従長が2日遅らせる騒動まで起きた(※2)。

 

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