第86回 金解禁と軍縮(2)条約めぐり天皇と軋轢 東郷平八郎は晩節を汚したのか

【昭和天皇の87年】条約めぐり天皇と軋轢 東郷平八郎は晩節を汚したのか

第86回 金解禁と軍縮(2)

東郷元帥が晩節を汚さないよう注意を要する-。

1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮会議で全権を務め、交渉成立に苦労した海相、財部彪(たけし)が日記につづった内容だ。

当時、元帥海軍大将の東郷平八郎は82歳。

第一線から退いて久しいが、しばしば海軍現役のすることに口を出し、周囲を困惑させていた(※1)。

戦前の海軍は重要事項を決める際、元帥に“お伺い”をたてるのが慣例だった。

といっても半ば儀礼的で、東郷より年長の元帥、井上良馨(よしか)は何事にも「よろしいように」と答えてきた。

一方、万事に実直な東郷は、どこまでも生真面目に答えようとした。

軍縮会議が始まる前、海軍省がお伺いをたててきたとき、東郷はきっぱりと言った。

「(対米7割の補助艦保有比率を確保する)協定成らざれば、断々乎破棄の外なきものとす」

財部をはじめ海軍省の主流派は、頭を抱えたことだろう。

その一方、軍令部長の加藤寛治ら一部将官は欣喜雀躍した。

のちに艦隊派と呼ばれる彼らは、東郷を御輿(みこし)に乗せて軍縮条約反対の運動を起こし、昭和天皇の頭痛の種になる。

× × ×

 

昭和天皇は、条約成立を目指す政府方針を支持していた。

対米7割にはわずかに届かなかったものの、69・75%で妥協点に達したことを喜び、昭和5年4月には駐日米国大使夫妻を皇居に招いて《条約成立の上は各国、殊に日英米三国は条約の精神によりますます提携して世界平和を増進したきこと》を述べたと、昭和天皇実録に記されている(17巻52頁)。

 軍縮条約を機に昭和天皇は、悪化しつつあった日米関係を修復したかったのだ。

 だが、軍縮条約は枢密院で批准されなければ成立しない。

その前に東郷を筆頭とする艦隊派は、対米7割を貫徹できなかった政府を激しく責め立て、軍令部長の加藤が突如辞表を提出するなど混乱を極めた。

 後任には良識派の呉鎮守府司令長官、谷口尚真(なおみ)が起用されることになったが、東郷が首を縦に振らなければまたもめるに違いない。

昭和天皇は侍従武官長の奈良武次を呼んで言った。

 「東郷元帥のもとへ行って谷口起用の適否をはかり、仮に不同意の場合には極力元帥を説得し、同意せしめるように」

 東郷は、人事案には同意したものの政府批判を繰り返して奈良を困惑させたという。

その様子を聞いて、昭和天皇はどんな気持ちだっただろう(※2)。

 

かつて東宮御学問所の総裁を務めた東郷は、昭和天皇にとって恩師といえる。

陸海軍の演習授業ではいつも傍らにいて、直接指導を受けた。

雨の降りしきる軍艦の艦橋で、東郷の説明に直立不動で耳を傾けたこともある。

 そんな恩師との意見の対立-。

東郷に人事案への同意を求めた日、侍従の一人は日誌に書いた。

 「本日は殊に御心労在らせられたる御模様に拝したり」--

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 財部のほかにも海軍軍人の中には、東郷の晩年の言動を憂慮する声が少なくなかったとされる

(※2) 昭和天皇は学習院長だった乃木希典については、後年もしばしば「尊敬している」と述懐したが、東郷について語ることはあまりなかった。

軍縮条約をめぐる意見の食い違いが尾を引いたとも考えられる

【参考・引用文献】

○波多野勝著「浜口雄幸」(中央公論社)

○田中宏巳著「東郷平八郎」(筑摩書房)

○宮内庁編「昭和天皇実録」17巻

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