第88回 昭和恐慌と三月事件 : 闇に葬られた「桜会」の謀略 中堅将校に過激思想がみなぎった

【昭和天皇の87年】

闇に葬られた「桜会」の謀略 中堅将校に過激思想がみなぎった

第88回 昭和恐慌と三月事件

 激動の昭和初期、昭和天皇を精神的に支えたのが、家族とのふれ合いだったことはすでに書いた。

 昭和4年9月30日、香淳皇后は第3皇女の孝宮(たかのみや)和子内親王を出産。

6年3月7日には第4皇女の順宮(よりのみや)厚子内親王を出産する。

内外ともに、日に日に社会情勢が悪化していた頃だ。

昭和天皇は新しい命の誕生を、心の励みにしたことだろう。

× × ×

 昭和5年から6年にかけ、日本は不況のどん底にあった。

最大の原因は、政府が5年1月に断行した金解禁(※1)である。

日本経済はそれまで、為替相場の乱高下に翻弄されており、金解禁による金本位制への復帰を望む声が強かったのは確かだ。

しかし、タイミングがあまりに悪すぎた。

 前年10月にニューヨークの株式市場が暴落し、やがて大恐慌の波が世界中を覆う。

その中での金解禁は「嵐の中で雨戸を開ける」ようなものだとされ、たちまち金と正貨(本位貨幣)が海外に流出。

激しいデフレにより経済は萎縮し、中小企業の倒産、失業者の増大、賃金カットや不払いなど、危機的状態に陥った。

 日本史上最悪といわれる、昭和恐慌である。

 

不況で打撃を受けたのは、大学新卒のインテリ層だった。

6年3月2日の東京朝日新聞が書く。

 「刀折れ矢は尽きた 各大学就職戦線 昨年に比し半減、三分の一減 無残、打砕かるゝ若人」

 この年の法・経・文科系新卒者の就職率はわずかに3割。

4年秋に上映された小津安二郎監督の映画タイトル「大学は出たけれど」が流行語にもなった。

全体の失業率も4年の4・3%から5年は5・2%、6年は5・9%、7年は6・9%-と、急激に悪化していく(※2)。

 農村はさらに悲惨だ。

農作物価格が暴落し、その穴を埋めようと農家が増産に励んだことがさらなる価格低下を招くという悪循環。

昭和4年に比べ6年の米価は58%、9年の繭(まゆ)は31%に落ち込んだ。

「キャベツ50個で敷島(タバコの銘柄)1つ」といわれたほどである。

のちに凶作も加わり、娘の身売りや欠食児童が社会問題化するようになった。

 金解禁などの経済政策を強引に進めたのは蔵相、井上準之助である。

日銀出身の井上は現実よりも理論にこだわり、イギリスをはじめ欧州各国が次々に金輸出を再禁止していく中でも金解禁政策に固執した。

このため正貨の流出に歯止めがかからなくなると、井上は公定歩合を一気に上げて金融を引き締めようとし、さらに不況を深刻化させてしまった。

× × ×

 昭和恐慌は、先の大戦の遠因にもなったといわれる。

全体主義的な風潮を生み出したからだ。

その兆候が、早くも陸軍部内に見え始めていた。

 

元老西園寺公望の私設秘書、原田熊雄が歩兵第5旅団長だった東久邇宮稔彦王から衝撃的な疑惑を知らされたのは、昭和6年8月2日である。

 「(前陸相の)宇垣(一成)朝鮮総督はクーデターを議会中にやらうとしたのぢやないか。

或る陸軍の若い士官が自分の所に来て、『宇垣は野心家であります。議会中にクーデターをやる計画をしたさうです』と言つてゐたが…」

 原田は驚いた。

事実かどうかを知己の陸軍省動員課長にたずねると、「絶対に秘密にしておいてもらいたいが、自分はよく知っている」と、未遂に終わった計画の概要を打ち明けてくれた。

 のちに三月事件と呼ばれる、クーデター計画の顛末(てんまつ)はこうである。

 中心となったのは、参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎らが結成した秘密結社「桜会」のメンバーだ。

政党政治が堕落していると考えた橋本ら中堅将校は、参謀次長、軍務局長、参謀本部第2部長らの賛同を得て、国家改造に向けた謀略を企てた。

まず、協力者で過激右翼の大川周明が1万人の大衆を動員し、国会議事堂周辺で大騒動を起こす。

これを鎮圧するため第1師団が出動。

混乱の中で閣僚に辞職を迫り、当時陸相の宇垣を首班とする軍事政権をつくる-。

 実行日は6年3月20日とされ、演習用の擬砲弾300発が大川に渡された。

しかし、陸軍内部から反対の声が上がり、当初は乗り気だった宇垣も直前で中止を命令。

計画は闇に葬られた。

 

事件の概要は、原田から西園寺に伝えられ、首相、内大臣、侍従長らの耳にも届いた。

前代未聞の不祥事に、誰もが唖然(あぜん)としたことだろう。

 昭和恐慌で社会が疲弊し、政党内閣への不信と批判が渦巻く中、明治天皇の軍人勅諭で政治への関与が禁じられた軍人、それも参謀本部の中枢が政府転覆を画策した三月事件は、計り知れない悪影響を及ぼしたとされる。

明確な軍紀違反でありながら誰も処分されなかったため、過激な中堅将校に「陸軍首脳も国家改造を望んでいる」「謀略を起こしても処罰されない」という、誤った認識を抱かせたからだ。

 戦前に大海軍記者といわれた伊藤正徳は、戦後の著書にこう書いている。

 「(三月事件は)日本の輝かしい歴史を暗黒の方向に変針させた第一歩として、張作霖爆死事件よりも深刻な意味を持つであろう。

(中略)軍人の政治関与と暴力直接行動のスタートを切り、五・一五以下の相次ぐ乱行の教科書を書きおろしたからである」

× × ×

 もっとも、全体主義的な風潮は日本だけに限らない。

すでにイタリアでは5年前の1926年、ベニート・ムソリーニ率いる国家ファシスト党の独裁体制が確立した。

ドイツでは前年の1930年、アドルフ・ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が議会第2党に躍進、その3年後にヒトラー政権が誕生する。

 

全体主義に拍車をかけたのは、1929年から続く世界恐慌だ。

危機を乗り切るため、多くの植民地を持つ英仏など“持てる国”は自国の経済圏から他国を閉め出そうとし、日独伊など“持たざる国”は新たな経済圏を求めるようになる。

イタリアはアフリカを、ドイツは中欧を、そして日本が目指したのは満州だった。

 昭和6年9月、昭和天皇は30歳。

日本の岐路となる運命の秋を迎える--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週からは「満州事変」編を連載します)

(※1)金本位制に復帰するため、金の輸出禁止を解除すること

(※2) 当時の統計は十分ではなく、実際の失業率はさらに悪かったとされる

【参考・引用文献】

○東京12チャンネル報道部編「証言 私の昭和史1」(学芸書林)

○中村隆英著「昭和恐慌と経済政策」(講談社)

○森武麿ほか著「現代日本経済史」(有斐閣)

○原田熊雄述「西園寺公と政局」(岩波書店)2巻

○森克己著「満州事変の裏面史」(国書刊行会)

○伊藤正徳著「軍閥興亡史II」(文芸春秋新社)

 

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