第92回 満州事変(4) 朝鮮軍が独断出兵 天皇の統帥権はないがしろにされた   

昭和天皇の87年

朝鮮軍が独断出兵 天皇の統帥権はないがしろにされた   2019.1.27

 

■第92回 満州事変(4)

 昭和6年9月18日深夜の柳条湖事件で勃発した満洲事変-。

関東軍作戦主任参謀の石原莞爾が“次の一手”として画策したのは、朝鮮軍を巻き込むことだ。

 気脈を通じていた朝鮮軍の参謀が軍司令官の林銑十郎を説得し、林は19日に朝鮮軍の出動準備と飛行隊出動の命令を下す。

 その報告を受け、陸相の南次郎と参謀総長の金谷範三は狼狽(ろうばい)した。この日、政府の不拡大方針が決まったばかりだ。侍従武官長からも「大なる出兵」にクギを刺されている。

 金谷はすぐに参内し、昭和天皇に《朝鮮軍司令官から満州の情勢危急により混成旅団並びに飛行隊の一部を奉天方面へ派遣する旨の報告を受けたが、かかる派兵は御裁可後に実行すべきものとして目下中止せしめつつあること、ただし飛行隊はすでに出発したためこれを制止することができず誠に恐懼(きょうく)に堪えない》などと陳謝した(昭和天皇実録18巻90頁)。

 一方、独断出兵の停止を命じられた朝鮮軍司令官の林も、煩悶(はんもん)していた。

部下の参謀からは、友軍を見捨てるのかと激しい突き上げを受けている。

板挟みとなった林は、20日夕方、ついに出兵を決断する。

 天皇の裁可を受けずに軍を管轄外に動かすのは、天皇の統帥権をないがしろにするものだ。

林の独断出兵は、のちの陸軍暴走にもつながる重大な禍根を残したといえよう。

だが、このとき林の決断を支えたのは、意外にもマスコミ世論だった。

 22日の新聞各紙に、特大の大見出しが並ぶ。

 「軍司令官の独断に基き 朝鮮軍愈(いよい)よ満州出動」(読売新聞)

 「支那側の暴慢に憤激し 皇軍積極行動に決す」(大阪毎日新聞)

 「出動の朝鮮軍 奉天に到着す 一部はさらに前進」(大阪朝日新聞)

 この報道に、陸軍中央も引きずられた。

19日に出兵中止を昭和天皇に奏上したばかりの参謀総長と陸相は、一時は辞職も考えたが、新聞各紙が陸軍の非を責めず、世論も陸軍を支持したため、「出てった以上、仕方がない」と開き直った(※1)。

× × ×

 風前の灯火(ともしび)となる不拡大方針-。

政府と宮中は頭を抱えた。

当時の陸軍について、侍従武官長の奈良武次はこう書き残している。

 「陸軍大臣も参謀総長も軍司令官も威厳なく 中堅層殊に出先軍隊の不軍紀下克上行為を制止し能はざる状態にあるを認め 遺憾至極将来恐るべきを感ず」

 それより前、奈良は紛争拡大を憂慮する宮中幹部に「陸軍中央も相当強力に関東軍の行動を抑制しているので心配ないだろう」と伝えていた。

 しかし、その情勢判断は間違っていた。奈良は続けて書く。

 「予の不明出先軍隊意外の専断は陛下に対し奉り誠に申訳なし」

「軍部の高級者が威厳なく若手に引摺られ居る状況なるを(中略)痛嘆す」

 政府は結局、22日の閣議で朝鮮軍混成1旅団の越境出兵に伴う経費支出を承認。

首相の若槻礼次郎が急ぎ参内し、独断出兵に賛成しないものの事後承諾したことを、

苦渋の思いで奏上した。

 一方、関東軍の怒濤(どとう)の進撃に、なす術(すべ)もなく押されていた中国側だが、

紛争拡大の様相をみて“反撃”に転じる。

国際連盟に理事会招集を求めたのだ。

 満州での軍事行動に、国際社会が厳しい目を向けていたのは言うまでもない。

朝鮮軍の独断出兵は、日本の立場をさらに悪化させたといえるだろう。

若槻政権が推進し、昭和天皇も支持する国際協調路線は、最大のピンチを迎えようとしていた。

 だがここで、外相の幣原喜重郎が驚異的な粘り腰をみせる--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 当時の新聞によれば、柳条湖事件を好機として満州問題を解決せよとする声は一般国民のほか財界からも上がっており、各地で開かれた在郷軍人会主催の演説会はどこも満員だったという

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」18巻

○奈良武次記「侍従武官長奈良武次日記・回顧録」(柏書房)4巻

○昭和6年9月22日の読売新聞、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞

 

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