第95回 戦争と報道(1)あおられた満州事変 新聞メデイアが後押しした

昭和天皇の87年 あおられた満州事変 新聞メデイアが後押しした

第95回 戦争と報道(1)

昭和6年10月1日、大阪朝日新聞は社説に書いた。

 「(満州に)一新独立国を建設することは、更に国際戦争の惨禍を免れるゆえんであつて、極東平和の基礎を一層強固にするものでなければならぬ。

吾人はこの意味において、満州に独立国の生れ出ることについては歓迎こそすれ反対すべき理由はないと信ずるものである」

 満州事変の勃発から半月足らず、溥儀が担ぎ出されて満州国建国を宣言する5カ月以上も前から、大阪朝日は「独立」を歓迎していたのだ。

事実上、関東軍の暴走を後押ししていたと言っていい。

 さらに大阪朝日は読者から寄付を募り、関東軍将兵に慰問金と慰問袋を送る一大キャンペーンを展開する。

たちまち大きな反響を呼んで30万円超を集め、現地の関東軍に届けた。現在の貨幣価値に換算すれば億単位の大金だ。

喜んだ関東軍は10月27日、軍司令官名義で朝日の社長に感謝状を贈っている。

 同じ日、日本に満州からの撤兵を求める国際連盟理事会案に各国理事が賛同したことを受け、大阪朝日の天声人語は書いた。

 「(理事会案は)認識不足、嫉視排擠(しっしはいせい)、自家撞着の結晶であり、口頭の陳弁は悪意を蔽(おお)ふ装飾にすぎず

▼黄色国の台頭は白人天下の誇りを損ね、利害を超越した憎悪心の興隆であり

▼満蒙の権益を否認したくば印度(インド)を解放せよ、フイリツピンを独立せしめよ、ソコハカの小国オランダはスマトラを棄てる勇気を出せ-」

× × ×

 朝日と並ぶ大手紙、東京日日新聞(のちの毎日新聞)の社説はさらに過激だ。

政府の不拡大方針を弱腰と痛罵し、強硬路線をあおり立てた。

 9月27日「かくの如き時に当り、わが国の取るべき正道は何だ。

いふまでもなく、国家の威信を保持し、あくまで支那の非違を責め、支那の反省改悟するまで、その手を緩めないことである」

 10月1日「支那の非違を改めしめ、わが権益を積極的に擁護すべき時期が、今日到来したのである。

(中略)われ等は重ねて政府のあくまで強硬ならんことを切望するものである」

 10月9日「今や国民の間には、政府の無為無能に愛想を尽かさんとし、もしくは尽かしているものが少なくないのである。

(中略)殊に支那に対して最も重大なる対策を講ぜなければならぬ時、かかる無力の内閣に対する国民の不安は如何」

 ペンの勢いは止まらない。

10月27日の夕刊では「守れ満蒙 帝国の生命線」との大見出しで、4ページにわたる特集まで組んだ。

 「満蒙におけるわが特殊権益は日清日露の二大戦役を経て、十万の生霊と数十億の国幣を犠牲として獲得したるもので実にわが民族の血と汗の結晶といふべきものである」

 「満蒙の権益を蹂躙(じゅうりん)せんとするが如き行動に対しては、断乎として排撃するの外はない。

満州事変勃発以来、時局は益々重大性を加ふるのみ、事件の真相を明にし挙国一致これが解決に当るべきの秋(とき)である」

 ここまでくると、記事というよりアジテーションだ。

さすがに社内からも「毎日新聞後援、関東軍主催、満州事変」と自嘲する声が上がったという。

× × ×

 朝日、毎日の二大紙はなぜ、関東軍の暴走を支持し、世論をあおるキャンペーンを展開したのか。

 東京日日など毎日系はもともと軍部寄りの論調だったが、朝日系は満州事変が起こるまで、軍部に批判的な論陣を張っていた。

事変勃発のおよそ3カ月前、朝日は政界、財界、学界の代表を集めて座談会を開き、23回にわたる連載記事で軍事予算削減、軍部大臣現役武官制の廃止、国防目標の再検討-などを論じている。

 その朝日が、事変勃発で180度社論を転換した主因は、販売部数の拡大である。

 事変前、朝日は在郷軍人会などから不買運動を起され、部数を大きく減らしていた。

しかし事変後に論調を変えると急上昇し、社史によれば昭和6年の発行部数(東西計)約144万部が、翌年には約182万部に増えた。

 事情は毎日も同じだ。軍事衝突が起きれば、詳細な情報を求めて新聞が飛ぶように売れる。

のちに毎日は社史の中で、「戦争が新聞発行部数の増加をもたらすことは、西南戦争以来、日清、日露の戦争、第一次世界大戦によってすでに経験した。

昭和六年に起こった満州事変においても、この原則に変わりはない」と、率直に書いている(※1)。

× × ×

 朝日、毎日の二大紙が軍部寄りの論陣を張ったことで、不拡大方針をとる若槻礼次郎内閣が追い詰められたのは言うまでもない。

新聞社主催の時局講演会やニュース上映会はいつも黒山の人だかりとなり、“軟弱政府”への罵声が飛び交った。

 政党政治は世論にもろい。

関東軍を引き締めるべき“手綱”は、こうして緩んでしまったのである。

 以下、あえて脱線する。

 俗に15年戦争とよばれるが、満州事変は、先の大戦につながる発火点だ。

昭和6年9月の柳条湖事件から20年8月の終戦まで足かけ15年に、国内外でどれほど多くの命が奪われたことか。

主導したのは軍部だが、朝日や毎日など新聞メディアも共犯である。

 “加害者”である軍部は敗戦により消滅した。

しかし新聞は、軍部の圧力に抗しきれなかったというレトリックを使い、自らを“被害者”の立場にすり替えることで戦後も生き延びた。

 被害者であるためには、軍部による言論弾圧を殊更強調し、戦前の日本を暗黒に描かなければならない。

中国や韓国が誇大な戦争被害を訴えるのと同じだ。

 この新聞の“加害者”から“被害者”への転身こそ、戦後の日本をいびつにした最大の病巣なのだが、それについては章を改めて詳述する--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 満州事変で朝日、毎日の二大紙は、資本力を生かして多数の特派員を現地に派遣、自社の飛行機を往復させて詳報を伝え、部数を大きく伸ばした。

一方、資本力のない時事、報知、国民新聞などは二大紙のような取材態勢がとれず、部数を減らして衰退することになった。

その間隙を突いて、読売が大きく部数を伸ばしたといわれる

【参考・引用文献】

○前坂俊之著「太平洋戦争と新聞」(講談社)

○昭和6年10月1、27日の大阪朝日新聞

○同年9月27日、10月1、9、27日の東京日日新聞

○朝日新聞社発行「朝日新聞社史 資料編」

○毎日新聞社発行「毎日新聞百年史」

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