第97回 桜田門事件 天皇の車列に爆弾を投げた朝鮮人活動家 「しかし陛下は…….」

昭和天皇の87年

天皇の車列に爆弾を投げた朝鮮人活動家 「しかし陛下は…」

第97回 桜田門事件

昭和6年12月12日、満州事変で関東軍の手綱を引けなかった若槻礼次郎内閣の総辞職を受け、組閣の大命を受けたのは野党第1党の立憲政友会総裁、犬養毅である。

 元老の西園寺公望が参内し、犬養を次期首相に推薦したとき、昭和天皇は言った。

 「後継内閣の首班になる者に対しては、特に懇に西園寺から注意してもらひたい。

即ち今日のやうな軍部の不統制、並に横暴、-要するに軍部が国政、外交に立入つて、かくの如きまでに押しを通すといふことは、国家のために頗(すこぶ)る憂慮すべき事態である。

自分は頗る深憂に堪へない。

この自分の心配を心して、お前から充分犬養に含ましておいてくれ」

 政友会は親軍的な色彩が強い。

昭和天皇は、軍部の暴走に拍車がかかることを危ぶんだのだろう。

 犬養は、この思いを重く受け止めたようだ。

組閣から半月後、犬養から満州情勢について報告を受けた昭和天皇は、《侍従長鈴木貫太郎に対し、犬養首相について、局にあれば在野の時分とは自ずから改まり幣原前外相と別に変わらないと御満足の意》を示したと、昭和天皇実録に記されている(18巻155頁)。

 だが、犬養をもってしても、関東軍の手綱は引けなかった。

関東軍は年明け後の昭和7年1月3日、満州南西の古都・錦州(現中国遼寧省錦州市)を占領し、国際社会の、ことに米国の憤激を買った。

× × ×

 衝撃的な事件が追い打ちをかける。

 1月8日、陸軍始観兵式を終えて皇居に戻る昭和天皇の儀仗行列に、沿道から手榴(しゅりゅう)弾が投げ込まれたのだ。

昭和天皇の御料車から約30メートル離れたところで炸裂(さくれつ)し、昭和天皇は無事だったが、行列の近衛兵1人、馬2頭を傷つけた(※1)。

のちに桜田門事件と呼ばれる、白昼のテロリズム-。

犬養は色を失い、閣僚の辞表をまとめて即日提出した。

 一方、昭和天皇は冷静だった。

 実録によれば《還幸後、侍従長鈴木貫太郎より(中略)爆弾を投擲(とうてき)したのは朝鮮人であることをお聞きになる。

その際、満州問題に対する御懸念より、種々政務に関して御下問になり、(中略)内大臣牧野伸顕に対しても満州問題を憂慮する旨を述べられる》(19巻6頁)

 昭和天皇は自身の安全を気にするより、国家の安全が気になっていたのだ。

 犬養内閣の辞表は、昭和天皇の意向により取り下げられ、《内外時局非常の際につき留任すべき旨の御言葉》が下された(19巻9頁)。

 この日、侍従次長の河井弥八は日記に書いた。

 「陛下の御態度は御沈着を極め、還幸後も右顛末(てんまつ)に付ては御下問なく、却て米国の通牒(つうちょう)如何を問はせ給ひしことなど、感激に堪えず」

 昭和天皇の聖徳がしのばれよう。

× × ×

 ところで、河井の日記にある「米国の通牒」とは、桜田門事件の前日に発せられたスティムソン・ドクトリンのことだ。

すなわち米国務長官のヘンリー・スティムソンは1月7日、日本と中国に向けて、以下のように通告した。

 --錦州に対する(日本の)最近の軍事作戦により、1931年9月18日以前には存在していた南満州における中華民国の行政権限は完全に破壊されました。

アメリカ合衆国政府は、合衆国の門戸開放政策に反し、中華民国の領土保全を損なうようないかなる条約や合意も認めることはできませんし、既成事実化されたいかなる状況も認めません。

また、1928年に締結された不戦条約に反するいかなる状況、条約、合意も認めることはできません--

 表現は穏やかながら、満州事変における日本側の主張を一切認めず、関東軍の行動を全否定した内容といえるだろう。

このスティムソン・ドクトリンは、アメリカの対アジア政策の転換点になったといわれる。

事実このあとアメリカは日本を仮想敵国とみなし、先の大戦へとつながるレールをひた走っていくのだ。

 しかし当時の日本で、スティムソン・ドクトリンに秘められた意味を察することのできる人物はごくわずかだった。

 昭和天皇は察した。

 軍部と新聞は軽視した。

 そして後者は、満州に続き上海でも事を起す--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 手榴弾を投げたのは朝鮮独立運動家の李奉昌で、大逆罪に問われて死刑判決を受けた

【参考・引用文献】

○原田熊雄述「西園寺公と政局」(岩波書店)2巻

○宮内庁編「昭和天皇実録」18巻、19巻

○木堂先生伝記刊行会・鷲尾義直編「犬養木堂伝〈中〉」(原書房)

○河井弥八記、高橋紘ら編「昭和初期の天皇と宮中〈侍従次長河井弥八日記〉」(岩波書店)6巻

○中沢志保著「スティムソン・ドクトリンと1930年代初頭のアメリカ外交」(文化女子大学紀要「人文・社会科学研究19」所収)

コメントを残す

サブコンテンツ

i2i


サイト内ランキング



アクセスカウンター


my日本

忍者画像人気記事


このページの先頭へ