第98回 上海事変 またもメデイアが国民をあおった

昭和天皇の87年   2019.02.17

「爆弾三勇士」の真相 またも新聞メデイアが国民をあおった

第98回 上海事変

 満州事変をめぐり米国務長官が日本側の主張を全否定した、昭和7年1月7日通告のスティムソン・ドクトリン。

だが、日本の軍部はどこ吹く風だ。

すでに書いた通り、朝日、毎日をはじめ新聞メディアが軍部の側に立ち、国民世論をあおっていたからである。

 得意満面の陸相、荒木貞夫は参内した。

 同年1月18日《(昭和天皇は)御学問所において陸軍大臣荒木貞夫に謁を賜い、満州事変に対する国民の同情、並びに満州出征軍への国民の後援の熾烈(しれつ)な情況につき奏上を受けられる》(昭和天皇実録19巻14頁)

 事変の不拡大を願う昭和天皇は、軍部を熾烈に支持する世論を、どう思ったことだろう。

× × ×

 中国最大の商業都市、上海で「事件」が起きたのは、まさにその日である。

 1月18日の夕刻、上海の街路を歩いていた日蓮宗日本山妙法寺の日本人僧侶2人と信者3人が、中国人とみられる数十人の集団に襲撃され、僧侶1人が死亡、2人が重軽傷を負った。

これに激高した日本人居留民の青年同志らが中国人街に殴り込みをかけ、日中双方に死傷者が出る。

10日後の28日には、居留民保護に動いた現地の日本海軍陸戦隊(兵力約2700人)と中国の十九路軍(同約3万人)が衝突、本格的な戦闘に突入した(※1)。

 上海事変(第一次)である。

 ここでも、国民の戦争熱をかき立てたのは新聞メディアだった。

東京日日新聞や大阪朝日新聞は「砲声!爆撃!前進」「突撃!また突撃」の見出しを並べ、軍部の背中を押した。

典型的な例が、爆弾三勇士のキャンペーン報道だ。

2月24日の両紙によれば、国民を熱狂の渦に巻き込んだ“軍国美談”の発端はこうである。

 --戦力寡少の日本軍は第9師団などを増派したものの、十九路軍の激しい抵抗により苦戦を強いられた。

そんな最中の2月22日、上海郊外の廟行鎮(びょうこうちん)で3人の日本兵が決死の作戦を志願。

身体一杯に爆弾を巻きつけ、帝国万歳を叫びつつ敵陣に突っ込み、壮絶な戦死を遂げた。

これにより敵陣の鉄条網が破壊され、友軍が廟行鎮に突入、まんまと陥れることができた--

 神風特攻の先駆けともいえる、究極の自己犠牲だ。

大阪朝日が「これぞ真の肉弾! 壮絶無比の爆死」と賞嘆すれば、東京日日は「世界比ありやこの気魄 廟行鎮攻撃の三勇士」と賛美する。

以後、新聞や雑誌は競って「三勇士」を持ち上げ、軍神化した。

 ところが、この“美談”には裏があった。

数日後に特派員が現地へ行って再取材したところ、3人の日本兵は志願したのではなく、上官に無謀な作戦を強要された疑いが濃厚になったのだ。

3人は命令により、導火線に火のついた破壊筒を敵陣に押し込もうとしたものの、途中で1人が転倒。

引き返そうとすると上官に叱咤され、再び突撃したところで破壊筒が爆発し、死亡したというのが真相だった。

 それでもメディアは「一死報国の極致」「大和魂の精華」とあおり続けた。

今さら「無謀な命令だった」とは書けないからである。

中でも朝日と毎日は弔慰金募集などのキャンペーンに奔走し、三勇士を讃える歌までつくった(※2)。

 余談だが、このキャンペーン報道が軍部の、ことに陸軍の行動様式に与えた悪影響は計り知れない。

科学技術よりも精神が絶対視され、無謀な作戦がまかり通るようになるからだ。

先の大戦後、メディアの多くが肉弾攻撃を批判し、犬死とさえ罵倒するようになるが、メディアにこそ責任があることを、自戒せずにはいられない。

× × ×

 閑話休題。上海事変の顛末である。

 政府は、国際社会が注視する上海での軍事行動を最小限に抑えたかった。

しかし、新聞と世論を味方につけた陸軍の要求に抗しきれず、2月23日、2個師団の増派を決定する。

 その軍司令官となる白川義則が出征前に参内したとき、昭和天皇は言った。

 「三月三日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしい。

私はこれまでいくたびか裏切られた。

お前ならば守ってくれるであろうと思っている」

 白川は、昭和天皇の目に深い憂慮が浮かぶのを見たことだろう。

3月1日に上陸して十九路軍を撃退すると、追撃戦を求める声を押さえ、3日に戦闘中止を宣言した。

 歴史はときに残酷だ。

昭和天皇の意向を守った白川だが、4月29日、上海で行われた天長節式典で朝鮮半島出身の活動家が投げた爆弾に吹き飛ばされ、1カ月後に絶命する。

 昭和天皇は、白川の忠義をいつまでも忘れなかった。

翌春の一周忌、和歌を詠んで遺族におくった。

 をとめらの ひなまつる日に いくさをば とゝめしいさを おもひてにけり-- 

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 上海事変の端緒となった日本人僧侶襲撃事件は、満州事変に向けられた国際社会の厳しい目をそらすため、関東軍が仕組んだ謀略とする説もあるが、定かではない。

なお、当時の上海は「日貨を買わず、売らず、運ばず、用いず」の排日貨運動が激化していたうえ、昭和天皇の儀仗行列に手榴弾が投げ込まれた1月8日の桜田門事件で上海の国民党機関誌が「不幸にして僅(わず)かに副車を炸く」と書いたこともあり、日中双方の反感が激化していた

(※2) 朝日系と毎日系の二大紙は読者から懸賞歌を募集し、朝日には12万4561通の、毎日には8万4177通の応募があるなど、空前の反響を呼んだ。

やがて発表された朝日の「肉弾三勇士の歌」は山田耕筰が作曲毎日の「爆弾三勇士の歌」は与謝野鉄幹が作詞し、いずれも全国で熱唱された。

二大紙のほか読売や時事などの新聞、日本及日本人などの雑誌メディアも、三勇士を美化するキャンペーンを展開した

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」19巻、20巻

○前坂俊之著「太平洋戦争と新聞」(講談社)

○慶応義塾大学法学部政治学科玉井清研究会編「第一次上海事変と日本のマスメディア」

○寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著「昭和天皇独白録」(文芸春秋)

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