第101回 五・一五事件: 首相官邸に乱入した海軍将校 「問答無用、撃て!」

首相官邸に乱入した海軍将校 「問答無用、撃て!」

第101回 五・一五事件

 昭和7年5月15日、日曜日の首相官邸は訪問客の予定もなく、ふだんより警備が手薄だった。

 陽の傾いた夕刻、午後5時25分、1台のタクシーが猛スピードで表門を走り抜け、官邸表玄関に横付けした。

左右のドアが勢いよく開き、中から海軍の青年将校が1人、2人…5人。

彼らは官邸内に入り込むと、警備の巡査に拳銃を突きつけた。

 「首相の居場所を言え!」

 巡査が断るや、将校の1人が発砲。

裏門から進入した4人の士官候補生らとともに、首相の姿を求めて官邸内を探し回った。

 このとき、首相の犬養毅は食堂にいた。

 「総理、大変です。暴漢が乱入しました。早くお逃げください」

 別の巡査が駆けつけて叫んだが、犬養は動じずに言った。

 「そいつたちに会おう。会って話せば分かる」

 そこへ、将校らが入り込んできた。

犬養をみるなり1人が拳銃の引き金を引いたが、不発だった。

 「まあ待て、撃つのは何時でもできる。あっちへ行って話を聞こう」

 犬養は明治23年の第1回衆院選以来、連続18回当選を重ねてきた言論の府の最重鎮だ。

新聞記者としての経験もあり、言論の力を信じていた。

将校らを客間に案内する姿はいつもと変わらなかったと、目撃者が話している。

 だが、狂信的な将校らにとって、犬養の落ち着きはかえって逆効果だったようだ。

 客間に座った犬養が、「靴ぐらい脱いだらどうか」と気さくに言ったとき、将校が叫んだ。

 「問答無用、撃て!」

 休日の官邸に、2発の銃声が響きわたった。

 将校らが去り、古参の女中が客間に駆け込んだとき、犬養は顔から血を流していたものの、意識はまだはっきりしていた。

 「いまの若い者をもう一度呼んで来い。話して聞かせてやる」

 犬養ならではの、渾身(こんしん)の気迫であろう。

同日午後11時20分、77歳の老宰相は、息子で政治家の健(たける)から「お父さん、後は安心して下さい」と声をかけられて、静かに息を引き取った。

 首相襲撃の凶報は、発生から1時間ほどで昭和天皇の耳に達した。

 5月15日午後《六時三十分過ぎ、急遽(きゅうきょ)参内の侍従長鈴木貫太郎に謁を賜い、内閣総理大臣犬養毅が首相官邸において遭難した旨の内閣書記官よりの電話連絡につき、奏上を受けられる》(昭和天皇実録19巻75頁)

× × ×

 五・一五事件-。

政党内閣を打破して軍事政権を樹立すべく、反乱に決起したのは海軍中尉・古賀清志ら海軍将校6人、陸軍士官候補生11人、元候補生1人、血盟団の残党ら民間右翼17人の総勢35人。

海軍将校率いる第1組が首相官邸、第2組は内大臣官邸、第3組は立憲政友会本部、第4組は三菱銀行本店などを襲撃し、同時に民間右翼の別動隊が変電所を破壊、帝都を暗黒化して戒厳令を敷かせ、天皇親政の昭和維新に結びつける-というのが計画の概要である。

 ただし犬養を暗殺したほかは各組とも目的を達せられず、わずか1時間足らずで事件は収束した(※1)。

 それでも、この反乱が宮中に与えた衝撃は計り知れない。

昭和天皇の側近中の側近、内大臣の牧野伸顕も標的にされたからだ。

海軍将校らは牧野を「袞竜(こんりょう※2)の袖に隠れて権勢を振ひつつある特権階級の代表」と見なし、暗殺リストの2番目に挙げていた。

 幸い、内大臣官邸に手榴(しゅりゅう)弾が投げつけられただけで、牧野は無事だった。

昭和天皇は翌16日、《内大臣牧野伸顕に謁を賜い、御機嫌伺いを受けられる。昨日の事件に関し、牧野の無事を悦ぶ旨の御詞あり》(19巻76頁)

× × ×

 ところで海軍将校らは、なぜ反乱に決起したのか。

背景の一つに、農村問題がある。

 昭和6年から7年にかけ、昭和恐慌のあおりを受けた農村は貧困のどん底にあった。

7年6月2日の東京朝日新聞の筆を借りれば「農産物価の激落、租税公課の重課、背負ひ切れぬ借金、深刻化して行く農業恐慌の重圧に没落の途を急ぐ-それが直視されたる我農村の現実の姿だ」

 昭和天皇も、農村問題に心を痛めた。

この頃、農家の生活状況や救済策などを首相や農相に繰り返し質問する様子が、昭和天皇実録に記されている。

 一方、軍隊には農村出身の兵士が多い。

五・一五事件を起こした青年将校や士官候補生らも貧困の兵士と身近に接している。

彼らは、農村などの窮状を救うため「堕落せる政党、財閥、特権階級の形成して居る醜悪なる現在の政治権力を破壊し、建国精神に基いた政治の行はれる皇国日本」を、暴力によってでもつくろうとした。

 「建国精神に基いた政治と云ふのは、天皇の御意図が其儘(そのまま)国家統治の上に反映し、(中略)君民一体の政治を行ふと云ふことであります」と、内大臣襲撃に関わった士官候補生が軍法会議の予審尋問で語っている。

 実際の昭和天皇の意思は憲政と平和を重んじることだが、彼らは、内大臣ら側近が天皇の目を「曇らせている」と邪推した。

 純真であればあるほど、現実の政治に憤慨し、過剰な思想を抱きやすい。

一般社会から離れて集団生活を送る軍隊内ではその傾向が強く、当時、天皇親政による国家改造を望む声が少なくなかった。

 その中には、昭和天皇の弟、雍仁(やすひと)親王も含まれていた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 4組に分かれて首相官邸、内大臣官邸、政党本部などを襲撃した海軍将校らは警視庁にも乱入して拳銃を発射するなどした後、午後6時10分までに東京憲兵隊本部に自首した。

襲撃に直接関わった軍人18人、民間右翼17人のほか、大川周明ら右翼4人、賛同した海軍将校4人も起訴され、軍法会議により実行犯の海軍将校には禁錮10~15年、陸軍士官候補生には禁錮4年、民間右翼らには東京地裁で懲役3年6月~無期懲役の判決が下された。

軍人の刑が軽く、それが4年後の二・二六事件につながったとする見方もある。

五・一五事件では首相のほか警察官1人が死亡、数名が負傷した

(※2) 「袞竜」とは竜の縫い取りのある天子の衣服。

袞竜の袖に隠れるの意味は、天子の威徳にすがって勝手な振る舞いをすること

【参考・引用文献】

○原秀男ら編「検察秘録 五・一五事件I~III〈匂坂資料1~3〉」(角川書店)

○堀真清著「五・一五事件の海軍将校たち」(早稲田大学政治経済学会発行「早稲田政治経済学雑誌」333号収録)

○木堂先生伝記刊行会・鷲尾義直編「犬養木堂伝〈中〉」(原書房)

○秦郁彦著「軍ファシズム運動史」(原書房)

○宮内庁編「昭和天皇実録」19巻

○昭和7年6月2日の東京朝日新聞

○同8年5月17日の大阪朝日新聞

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