第102回 弟宮との確執 全体主義が皇族にも?!天皇は憂慮し、憲政を守ろうとした   

昭和天皇の87年 

全体主義が皇族にも?!天皇は憂慮し、憲政を守ろうとした   

2019.3.3

第102回 弟宮との確執

五・一五事件の3日後、昭和7年5月18日《午後四時、(昭和天皇は)皇后と共に奥内謁見所にお出ましになり、翌十九日習志野に出発の雍仁(やすひと)親王と御対面になる。

引き続き御談話になり、雍仁親王は五時十五分退出する。

親王の退出後、直ちに侍従長鈴木貫太郎に謁を賜う》

(昭和天皇実録19巻78頁)

翌年に侍従武官長となる本庄繁によると、このとき、昭和天皇と雍仁親王は「激論」を交わしたという

本庄の日記に、こう書かれている。

「秩父宮(雍仁親王)殿下参内、陛下に御対談遊ばされ、切(しき)りに陛下の御親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止も亦(また)止むを得ずと激せられ、陛下との間に相当激論あらせられし…」(※1)

× × ×

雍仁親王は大正9年10月に陸軍士官学校に入学して以来、長く軍務についていた。

昭和6年11月の陸軍大学卒業時には、恩賜の軍刀(※2)を与えたらどうかと教官陣が話し合うほど、成績優秀だったと伝えられる。

当時は歩兵第3連隊第6中隊長で、部下の兵士らと身近に接し、同年代の将校らとの交流も多かった。

彼らの全体主義的な発想に影響を受けることもあっただろう。

「陛下の御親政」や「憲法の停止」の言葉の中に、それがうかがえる。

昭和天皇は雍仁親王と11歳まで生活をともにし、何をするのも一緒だった。

弟思いの兄と、兄思いの弟は、ひとつの菓子も分け合い、戦争ごっこでも決して敵味方に分かれなかった。

それから20年、意見が合わなくなってしまったことに、昭和天皇はどんな気持ちでいただろう。

× × ×

雍仁親王は第1位の皇位継承資格者だ。

集団生活で思考が固定化されやすい連隊勤務に長期間とどめておくことを、昭和天皇は憂慮した。

5月28日《侍従武官長奈良武次をお召しになり、暫時御用談になる。

青年将校の言動が過激なため、雍仁親王を他所に転補する必要なきや、陸軍大臣荒木貞夫にも協議するよう仰せられる》(19巻85頁)

宮中側近も、雍仁親王の環境を心配したようだ。

6月21日には有力華族の近衛文麿、宮相の一木喜徳郎、元老私設秘書の原田熊雄、内大臣府秘書官長の木戸幸一が集まり、「秩父宮の最近の時局に対する御考が稍々もすれば軍国的になれる点等につき意見を交換」したと、木戸が日記に書いている。

× × ×

皇族の間にすら全体主義的な思想が入り込む、不穏で危険な社会情勢-。

憂慮を深めた昭和天皇は、何とか憲法に基づく政治を保持しようとした。

暗殺された犬養毅の後継首相を推薦するのは元老、西園寺公望の役目だ。

その際、昭和天皇は3つの希望を伝えた。

一、首相は人格の立派なる者。

現在の政治の弊を改善し、陸海軍の軍紀を振粛するのは首相の人格如何による。

ファッショに近き者は絶対に不可なり

二、外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に努むること

三、事務官と政務官の区別を明らかにし、官規振粛を実行すべし

この希望を侍従長から伝えられた西園寺は、私設秘書の原田熊雄に言った。

「いずれもごもっともな思し召しだ」

× × ×

昭和天皇が摂政だった大正13年以来、首相は議会第1党の党首が任じ、失政で総辞職する場合は野党第1党の党首に、首相が死亡や病気で退陣する場合は与党の後継党首に、それぞれ大命降下する「憲政の常道」が続いていた。

この慣例に従えば、次期首相には政友会の後継党首となった鈴木喜三郎を推薦するのが順当だが、西園寺にその考えはなかった。

当時、政党内閣には軍部からの批判が強く、鈴木を首相にした場合、第2の五・一五事件が起きることを恐れたのである。

しかも鈴木には、内相だった昭和3年に大規模な選挙干渉を行い、憲政をないがしろにした“前科”があった。

五・一五事件直後の緊迫した情勢下、昭和天皇も、憲政の常道の終焉(しゅうえん)を覚悟したことだろう。

とはいえ、憲政をないがしろにする首相であっては困る。

天皇自身が首相選定に直接かかわれば立憲君主の枠をはみ出しかねないが、せめて3つの、最低限の希望だけは伝えておきたかった。

下馬評では、枢密院副議長の平沼騏一郎、2回の首相経験がある山本権兵衛、海軍重鎮の斎藤実が有力視されていた。

このうち平沼は、ファッショの傾向が強い。

山本に対しては、東郷平八郎らが猛烈に反対している(※3)。

熟考した西園寺は5月22日、次期首相に斎藤を推薦した。

かつてジュネーブ軍縮条約の首席全権を務めた斎藤は、海外にも知己の多い国際派として知られる。

海軍出身なので、軍部の暴走に一定の歯止めをかけることも期待できよう。

昭和天皇は、斎藤の手腕にかけるしかなかった。

斎藤内閣にとって最大の懸案は、国際連盟を舞台とした各国との協調だ。

その頃、満州事変について国際連盟が派遣したリットン調査団が、日本の運命を左右する報告書を作成しようとしていた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 本庄は「激論」のあった日を明記していないが、冒頭の昭和天皇実録の記述は出展のひとつに本庄日記を挙げており、5月18日とみられる.

 昭和天皇は「激論」の後、侍従長に「憲法の停止の如きは明治大帝の創制せられたる処のものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ず」と漏らしたという

(※2) 恩賜の軍刀とは、陸軍大学や海軍大学などの卒業時、成績優秀者に天皇が授与する軍刀

(※3) 日露戦争時に海相の山本権兵衛から連合艦隊司令長官に抜擢(ばってき)された東郷平八郎だが、晩年は主義主張の対立などから関係が悪化していた

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」19巻

○本庄繁記「本庄日記〈普及版〉」(原書房)

○秦郁彦著「昭和史の謎を追う〈上〉」(文芸春秋)

○木戸日記研究会校訂「木戸幸一日記〈上〉」(東京大学出版会)

○原田熊雄述「西園寺公と政局 2巻」(岩波書店)

○御厨貴監修「歴代総理大臣伝記叢書 21巻 斎藤実」(ゆまに書房)

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