第104回 調査団(2)新聞メデイアは批判の大合唱 かくて報告書は破り捨てられた

昭和天皇の87年    2019.3.10

新聞メディアは批判の大合唱 かくて報告書は破り捨てられた

第104回 調査団(2)

満州事変をめぐり、国際連盟理事会が派遣したリットン調査団がまとめた報告書について、昭和天皇はのちにこう語っている。

「私は報告書をそのまゝ鵜呑みにして終(しま)ふ積りで、牧野(伸顕内大臣)、西園寺(公望元老)に相談した…」(昭和天皇独白録)

既述のようにリットン報告書は、満州事変における日本軍の行動を否定し、満州国を認めない立場を明らかにする一方、中国側が求める原状回復についても却下し、満州における日本の特殊権益を認めていた。

昭和天皇は、ここが引き時だと判断したのだ。

だが、新聞メディアはそう思わなかった。

リットン報告書が公表された翌朝、昭和7年10月3日の各紙朝刊は激烈な批判記事で埋め尽くされ、「認識不足」「一顧の価値なし」「満州国を侮辱」などの見出しが並んだ。

同日の各紙社説のタイトルは、こんな具合だ。

「錯覚、曲弁、認識不足 発表された調査団報告書」(東京朝日新聞)

「容認し能はざる点多く、解決提案は断じて不可」(大阪朝日新聞)

「夢を説く報告書 誇大妄想も甚だし」(東京日日新聞、大阪毎日新聞)…

× × ×

元老私設秘書の原田熊雄によれば、外務省はリットン報告書の発表に際し、「できるだけ穏便な態度を以て臨む」という方針で、新聞各社に「決して号外は出さないやうに」と申し入れたが、

「『東京日日』『大阪毎日』は号外を発行し、しかも相当に報告書の内容をこき下ろしてゐた」という。

「『朝日新聞』の如きは、閣議でも閣僚達が(リットン報告書の)内容について頗(すこぶ)る憤慨したといふやうな意味を大きな活字で発表してゐたので、総理に電話をかけて事の真否をたゞしたところ、

『いや、全然ない。あれは新聞が勝手に書いたのであつて、あゝいふことはちつともなかつた』との返事だつた」

新聞メディアの過剰反応により国民世論も沸騰し、政府は、リットン報告書を拒絶するほかなくなった

「鵜呑みにして終ふ積り」だった昭和天皇は、がっくり肩を落としたのではないか。

「…(報告書の受け入れについて)牧野は賛成したが、西園寺は閣議が、はねつけると決定した以上、之に反対するのは面白くない云つたので、私は自分の意思を徹することを思ひ止つたやうな訳である」(昭和天皇独白録)

とはいえ、このまま日本が国際社会から孤立していくのを、傍観しているわけにはいかない。

強硬路線の記事の背後に軍部がいるとみた昭和天皇は、元凶である軍部の暴走を、自ら押さえようとする。

× × ×

リットン報告書の公表から4カ月後、昭和8年は、重く戦雲が立ちこめる中で明けた。

万里の長城の東端、山海関(現中国河北省秦皇島市)で1月2日、日中両軍が衝突し、3日に日本軍が山海関を占領する事件が発生したのだ。

その翌日、侍従武官が山海関事件の拡大防止策を報告したとき、昭和天皇は言った。

《軍部は中央の訓令を守るか否か、事件が北支に波及拡大することはなきかを御下問になり、

満州事変に対する国際連盟の決定を目前にして、過度に積極的な行動を起こし、支那側の術中に陥ることなからしむべき旨を述べられる》(昭和天皇実録20巻3頁)

このとき、昭和天皇が憂慮したのは熱河作戦の発動である。

満洲国は建国宣言で、山海関のある熱河省(現河北省など)を領土の一部と主張していた。

しかし、中国側が同省に軍隊を送り込んだため、満洲国を支える関東軍は熱河作戦を策定。

山海関事件を機に、同省で軍事行動を起こす動きが強まった。

当時、国際連盟ではリットン報告書に基づき、日本への勧告内容をめぐって緊迫した交渉が続けられていた。

熱河作戦が発動されれば、国際協調の致命傷になりかねない。

昭和天皇は、内大臣を呼んで言った。

「御前会議を開いたらどうだろう」

立憲君主として、天皇がみだりに政府や軍部の決定に関与することは許されない。

しかし、御前会議で聖断を下せば、それは大日本帝国憲法下でも許容される、絶対的な命令となる(※1)。

昭和天皇は、いわば“伝家の宝刀”を抜こうとしたのだ。

だが、元老の西園寺公望らは、昭和天皇が直接命令を下すことに否定的だった。

陸軍の中堅将校らが素直に従うかどうか、確信が持てなかったからである。

もしも命令に反する事態が起きれば、昭和天皇の威信に傷がつき、国家が崩壊しかねない。

それでも昭和天皇はあきらめなかった。

いよいよ熱河作戦が発動されようというとき、侍従武官長の奈良武次を呼んだ。

《統帥最高命令によって作戦発動を中止することが可能か否かを(奈良に)御下問になる》(20巻19頁)

奈良も、西園寺と同様、国家の最後の砦(とりで)ともいえる昭和天皇の威信に傷が付くことを何より恐れている。

首をたてに振るわけにはいかなかった。

2月23日、熱河作戦が発動。関東軍は満州国軍と連携し、たちまち熱河省内の要衝を攻略した。

ジュネーブに本部をおく国連で、リットン報告書の採択などを審議する総会が開かれたのはその翌日、2月24日のことである--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 御前会議は天皇臨席の下、元老、主要閣僚、軍部首脳らが国家の最高意思を決定する会議。

法制上の明文規定はないが、明治27年の日清戦争開戦時に開催して以来、天皇が発言できる唯一の公式会議として慣例上認められていた

【参考・引用文献】

○寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著「昭和天皇独白録」(文春文庫)

○原田熊雄述「西園寺公と政局」(岩波書店)2巻

○牧野伸顕記、伊藤隆ら編「牧野伸顕日記」(中央公論社)

○宮内庁編「昭和天皇実録」20巻

○前坂俊之著「太平洋戦争と新聞」(講談社)

○昭和7年10月3日の東京朝日新聞、大阪朝日新聞、東京日日新聞、大阪毎日新聞、読売新聞

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