第105回:国際連盟脱退 日本が十字架にかけられる?!裏目に出た松岡洋石の大演説

 

昭和天皇の87年

日本が十字架にかけられる?! 裏目に出た松岡洋右の大演説

第105回 国連脱退

1933(昭和8)年2月24日、ジュネーブで開かれた国際連盟総会。

リットン報告書などの採決にあたり、日本の首席全権として最終演説に臨んだのは、昭和天皇がのちに強い不満を漏らす松岡洋右である。

元外交官の松岡は、英語でケンカができるといわれたほど語学力に優れ、演説もうまかった。

「満蒙は日本の生命線」という、当時の流行語を生み出したのも松岡だ(※1)。

国際関係打開の切り札として、首席全権に任命されたのは前年10月11日。

その英語力を買われての起用だが、結果的に、最悪の人選だったといえる。

松岡は自己顕示欲が強く、まとまりかけていたものを途中でぶち壊すような一面があった(※2)。

もっとも、松岡は当時、交渉をぶち壊すつもりは毛頭なかった。

首席全権に任命されるとき、元老の西園寺公望にこう言ったという。

「今度はもう、できるだけ穏やかに事をまとめて帰るよう努めます」

× × ×

1932(昭和7)年12月8日、ジュネーブに乗り込んだ松岡は、国連総会で早速ぶった。

「諸君! 日本は将(まさ)に十字架に懸けられやうとしてゐるのだ。

然(しか)し我々は信ずる。

確(かた)く確く信ずる。

僅(わず)かに数年ならずして、世界の輿論は変るであらう。

而してナザレのイエスが遂に世界に理解された如く、我々も亦、世界に依って理解されるであらう」

キリスト教信者の多い欧米諸国民には、決して「穏やか」とはいえない内容であろう(※3)。

問題の人物はほかにもいた。

トップの外相、内田康哉その人だ。

内田は就任間もない昭和7年8月、衆院本会議で「国を焦土と化しても(満州問題で)一歩も譲らない」と強硬論を吐き、議会を唖然(あぜん)とさせた。

国家が孤立するかどうかの瀬戸際に立たされながら、当時の外務省は、一枚岩ではなかったのだ(※4)。

× × ×

松岡は、脱退をちらつかせながら連盟当局に譲歩を迫ったが、効果があったとは言い難い。

連盟がリットン報告書を採決することが確実になった1933(昭和8)年2月17日、松岡は外務省に打電した。

「事茲(ここ)ニ至リタル以上、何等遅疑スル処ナク断然脱退ノ処置ヲ執ルニ非(あら)スンハ、徒(いたずら)ニ外間ノ嘲笑ヲ招クヘキト確信ス…」

そして迎えた2月24日、リットン報告書などの採決の結果は、賛成42カ国、反対1カ国(日本)、棄権1カ国(タイ)-。

惨敗である。

この結果に松岡は、国連総会の閉会宣言を待たずに堂々と退場した。

松岡流のパフォーマンスだろう。

最後の最後まで「穏やか」ではなかった。

3月27日、日本は正式に国連脱退を表明する。

× × ×

日本はなぜ、孤立する道を選んだのか-。

満州事変から国連脱退まで、先の大戦につながる孤立の序曲を奏でたのは陸軍だが、伴奏したのは新聞メディアである。

朝日、毎日系の二大紙が関東軍の暴走を後押ししたことは、すでに何度も書いた通りだ。

リットン報告書の受け入れに動く国連に対しても、大半の新聞論調は批判の大合唱だった。

中でも東京日日など毎日系は、1年前から早くも「連盟脱退すべし」の社説を繰り返し掲載、世論をあおった。

昭和16年に刊行された社史がうたう。

「(脱退に向けて)何人といへども日日新聞の努力貢献を看過することは出来ない。

即ち連盟がリットン卿一行の調査団を送り、日本圧迫の報告材料を漁りつゝあるさ中において、東日は『連盟を脱退すべし』との長論文を二十回に亙りて執筆せしめ、堂々と連盟脱退論を公にした。

この事は当時においては言論界の急先鋒としてその勇断を、その後においては先覚的見識を謳はれたものである」

× × ×

同紙以外の各紙社説も、8年になると急速に「脱退論」へ傾いていく(※5)。

「救ひ難き連盟 決裂以外にもはや途なし」(2月11日の読売新聞)、「わが代表は引揚げよ 連盟は我が誠意を解する能はず」(同日の大阪朝日新聞)…

各紙は、強硬論を吐く陸軍の主張にも、連日大きく紙面を割いた。

脱退回避を模索する政府は頭を抱え、2月1日の閣議では、蔵相の高橋是清と陸相の荒木貞夫とが、こんな議論を交わしている。

高橋「近来、日本の外交はまるで陸軍が引きずっているような形で、新聞なども二言目にはすぐ脱退だのなんのと騒ぎ立てるし、外交に関してすぐ陸軍が声明したりするが、一体なぜあんなことをするのか」

荒木「陸軍が宣伝するのじゃない。新聞が勝手に書くのだからやむを得ない」

高橋「新聞社が勝手に書くのなら、なぜ取り締まらないのか。知らん顔して書かせておくのがけしからん」

暴走する軍部と新聞が一体だったことを、如実に示すエピソードだ。

昭和8年4月27日、国連総会を退場した日本全権の松岡洋右が帰国するのを、各紙は「凱旋将軍」扱いで称賛した。

昭和天皇は、どんな気持ちでいたことだろう--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 松岡は昭和6年1月、衆院本会議で「満蒙問題は、わが国の存亡に関わる問題である。

わが国民の生命線である」と演説し、中国に融和的な幣原外交を痛烈に批判した。

その後、「満蒙は日本の生命線」のキャッチフレーズは満州事変を論じる際のキーワードとなった

(※2) 元老の西園寺公望は、「松岡といふ人はどうもパラドックスに陥り易い人」と危ぶんでいた

(※3) このときの松岡の演説は、原稿なしで1時間20分に及んだ。

日本にもこれほど英語が話せる政治家がいたのかと、拍手が起こったともいわれる。

しかし内容については欧米のメディアなどが強く批判し、まったく支持されなかった

(※4) このほか外務省情報部長の白鳥敏夫らも強硬論を主張した

(※5) 前坂俊之著「太平洋戦争と新聞」(講談社)によれば、時事新報は「脱退は誰でも出来る。脱退しないのが外交」との論陣を張り、各紙が唱える脱退論に最後まで反対した

【参考・引用文献】

○原田熊雄著「西園寺公と政局」(岩波書店)2巻

○三輪公忠著「松岡洋右」(中央公論社)

○内山正熊著「満州事変と国際連盟脱退」(日本国際政治学会編「満州事変」〈有斐閣〉収録)

○東京日日新聞社・大阪毎日新聞社発行「東日七十年史」(非売品)

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