第106回 熱河作戦 ついに満州事変が終結 日中に束の間の平和が訪れた

昭和天皇の87年

ついに満州事変が終結 日中に束の間の平和が訪れた

第106回 熱河作戦

「国際平和ノ確立ハ 朕常ニ之ヲ冀求(ききゅう)シテ止マス 是ヲ以テ平和各般ノ企図ハ 向後亦協力シテ渝(かわ)ルナシ 今ヤ連盟ト手ヲ分チ 帝国ノ所信ニ是レ従フト雖(いえども) 固(もと)ヨリ東亜ニ偏シテ友邦ノ誼(よしみ)ヲ疎(おろそ)カニスルモノニアラス 愈(いよいよ)信ヲ国際ニ篤クシ 大義ヲ宇内(うだい)ニ顕揚(けんよう)スルハ 夙夜(しゅくや)朕カ念トスル所ナリ」

昭和8年3月27日、国際連盟を脱退するにあたり発せられた、詔書の一部である

詔書案は政府が起草するが、昭和天皇は、世界の平和を念じていることと、「友邦ノ誼ヲ疎カニスルモノニアラス」との文言を入れるよう、強く求めた。

そこに、国連を脱退してもなお、国際協調の精神を保持しようとする真情がうかがえる。

× × ×

この頃、昭和天皇の心を深く悩ませていたのは、脱退前に発動した熱河(ねっか)作戦の行方だった。

すでに書いたように、日本軍は昭和8年2月、満州国軍と連携し、満州国が領土と主張する熱河省(現中国河北省など)の要衝を次々に攻略した。

一方、満州事変で奉天を追われた張学良は、熱河省を反撃の拠点にしようと軍隊を送り込み、それを蒋介石が支援、各地で激戦となった。

この戦闘をめぐる中国側の事情は複雑だ。

蒋介石は、熱河省での軍事行動で各国の同情を引くとともに、いまだ中央の威令が届かない地方軍閥を日本軍と戦わせ、その勢力を弱めようとしていた。

「雑軍整理」と呼ばれる、蒋の常套(じょうとう)手段である。

蒋の思惑通り、張学良軍は敗退し、張は軍の役職を辞任、張作霖時代から続く奉天軍閥は解体した。ところが、地方軍閥の弱体化により共産ゲリラ勢力が拡大し、かえって蒋は窮地に陥ってしまう。

ちょうどその頃、同年3月22日、昭和天皇は侍従武官長の奈良武次を呼んで言った。

「日本の対支政策は支那への同情援助を欠き 共匪(共産ゲリラ)を助けるに等しい。

対支方針を寛大にして国民党政府の共匪対策を容易にしてはどうか。

参謀本部の意向を尋ねてみよ」

昭和天皇は、蒋介石の国民党政府が弱体化して中国が混乱することを望まなかった。

むしろ蒋を助けることで、日中関係改善の一助にしたかったのである。

奈良が回顧録に書く。

「予は陛下の御意見は大局を達観せるものにて極て適当なるものと考ひ恐れながら御聡明に敬服す、当時日本人多くの意見が之に逆行するは遺憾なり」

× × ×

熱河作戦などが進行中の昭和8年2~5月、昭和天皇実録には、日本軍が万里の長城を越えて深く中国領内に進出しないよう、昭和天皇が繰り返し注意する様子が記されている(※1)。

その頃には現地の関東軍にも昭和天皇の意向が行き渡り、政府を慌てさせるような事態は少なくなった。

5月31日《(昭和天皇は)侍従武官石田保秀より、この日午前に塘沽(タンクー=現中国天津市)において日支停戦協定が調印されたことにつき奏上を受けられる。

(中略)この協定により満州国の国礎が確立する》(20巻69頁)

ここに、1931(昭和6)年9月の柳条湖事件にはじまる満州事変は終結した。

わずかの期間だが、日中間に平和が訪れたのだ。

そして皇室にも、全国民が待ち望んだ大きな喜びが訪れようとしていた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週からは、いよいよ今上陛下のご誕生を振り返る「万歳」編を連載します)

(※1) 例えば昭和8年4月18日の昭和天皇実録には《侍従武官長本庄繁をお召しになる。

国際信義の保持に鑑み、関東軍の北平・天津地方へのさらなる進出の中止を命じることの可否につき、御下問になる》(20巻51頁)。

5月10日には《天皇は去る五日以来、関東軍の関内作戦の状況に関し、侍従武官長あるいは侍従武官にしばしば御下問になる。

この日午前、侍従武官長本庄繁をお召しになり、熱河作戦に同意したのは、参謀総長が関内に進出又は爆撃しないことを明言したためであり、状況の変化とはいえ、それに反する行動は綱紀上・統帥上よりも遺憾とする旨のお言葉あり》(同巻61頁)などと記されている。

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」20巻

○奈良武次記「侍従武官長奈良武次日記・回顧録」(柏書房)4巻

○昭和8年3月31日および同年4月9日の東京朝日新聞

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