第107回:お世継ぎ(1)帝都に響くサイレン2回 天皇陛下御誕生

昭和天皇の87年

帝都に響くサイレン2回 天皇陛下ご誕生の朝

第107回 お世継ぎ(1)

昭和8年12月、昭和天皇は32歳-。

期待と不安に胸を締めつけられながら、それを表にあらわさないようにしていた。

天皇家に新たな命が誕生する日が、近づいていたのだ。

大正14年に成子内親王を出産した香淳皇后は、昭和2年に祐子内親王(3年に薨去)、4年に和子内親王、6年に厚子内親王と、2年ごとに皇女を産んだが、世継ぎとなる皇子には恵まれなかった。

皇統の維持は、天皇家の最重要課題だ。

なかなか皇子が誕生しないことに宮中関係者らは焦燥し、明治天皇の時代までは認められていた側室を置くよう、昭和天皇に求める声も上がっていた(※1)。

国民生活の模範であろうとする昭和天皇に、側室制度を復活するつもりはない。

だが、国家の柱である皇統を揺るぎないものとする必要性は、痛いほどよく分かっている。

第4皇女の厚子内親王が生まれた直後の6年3月下旬、宮内大臣にこう言っている。

「この際、皇室典範を改正して養子の制度を認めることの可否を(元老の西園寺公望に)聞いてきてほしい」

昭和天皇は、そこまで考えていたのだ。

香淳皇后が受けるプレッシャーは、より激しかっただろう。

7年10月には流産も経験している。

昭和天皇は当時、香淳皇后を気遣い、生まれてくる子の性別を気にするそぶりを、ほとんど見せなかった。

× × ×

8年8月に皇后妊娠が公表されて以来、国民が、今度こそはと祈る気持ちでいたことは言うまでもない。

吉報をいち早く知らせるため、帝都にはサイレンを鳴らして速報する仕組みが整えられていた。

皇女誕生ならサイレン1回、皇子誕生なら2回だ。

内大臣ら宮中幹部のもとに、「皇后に御産気の御徴候あり」と緊急電話が回されたのは、8年12月23日午前5時半である。

午前6時20分、香淳皇后が産殿に入った。

午前7時、朝日の輝く帝都に、サイレンは鳴った。

内大臣府秘書官長の木戸幸一が日記に書く。

「サイレンの二声を聴く。遂に国民の熱心なる希望は満されたり。大問題は解決せられたり。感無量、涙を禁ずる能はず」

× × ×

「昭和天皇実録」にはこう記されている。

12月23日《午前六時二十分皇后は産殿にお入りになり、同三十九分御分娩、親王すなわち皇太子が誕生する。

身長五十センチ七ミリメートル、体重三千二百六十グラム。

午前七時、東京市中に皇太子の誕生を意味する二回のサイレンを鳴らし、一般に周知せしめる》(20巻157頁)

皇太子-すなわち平成の天皇陛下(5月1日からは上皇陛下)が、お生まれになったのだ。

吉報を昭和天皇に伝えたのは、皇后宮職事務官の永積寅彦(のちの侍従次長)である。

産殿近くの控室で待機していた永積は、看護婦などから「親王さまです」と伝えられ、昭和天皇がいる御座所へ走った。

「皇太子殿下ご誕生でございます」

「そうか、それはよかった」

昭和天皇は、努めて平静を装っていた。

しかし、その表情の中に、あふれる喜びを抑えようとしているのを、永積は読み取った。

《(昭和天皇は午前)七時過ぎ、産殿伺候者の宮内大臣湯浅倉平及び内大臣牧野伸顕以下側近総代より祝詞の言上を受けられ、七時三十分皇太子と御対面になる》(20巻157~158頁)

× × ×

その頃、新聞各社は号外発行の準備で、興奮と喧噪(けんそう)の真っただ中にあった。

各社とも、数日前から号外用と朝夕刊用の予定稿を、皇子の場合、皇女の場合とに分けて用意している。

この日、宮内省から各社に「皇后陛下ただいま御産殿に」の一斉電話があったのは午前5時過ぎ。

泊まり込みの社会部員らは着の身着のまま、靴下とネクタイは手に持って宮内省へ車を飛ばし、地下の記者室にある電話回線の取り合いとなった。

午前7時前、官房から発表があると伝えられ、記者たちがワアッと階段を駆け上がる。

庁舎4階には広報担当の書記官がおり、記者が固唾をのんで見つめる中、「親王御誕生アラセラル」と書かれた筆太の発表文を掲げた。

東京日日新聞の宮内省担当記者だった藤樫準二が、その瞬間をこう振り返る。

「三十数名の記者が“皇太子”に歓声をあげてとびあがった。

細い階段に殺到して転がる者、合言葉でどなっている者、階段ごとに口頭リレーなどたいへんな騒ぎである。

各社は秘術をつくして一分一秒を争うものすごい号外戦であった」

カラリと晴れた師走の帝都に、号外、号外、チリンチリンと鐘の音が響く。

東京日日新聞の号外はこうだ。

「高朗たる御産声よ 玲瓏(れいろう)玉の如き御尊姿 天皇・皇太后両陛下御満悦 今ぞ全国民の念願達す」

この後、命名の儀が行われる12月29日まで、日本中が歓喜の嵐に包まれる--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 天皇が居住する宮中の「奥」には古くから典侍(てんじ)や掌侍(しょうじ)など生涯未婚の高等女官がおり、天皇に皇子が誕生しない場合は側室の役目を果たすこともあった。

大正天皇の時代は、貞明皇后が昭和天皇をはじめ4人の皇子を出産したため側室は必要なくなり、事実上の一夫一婦制となったが、女官制度は存続していた。

これに対し昭和天皇は即位後、高等女官に既婚者を採用して通勤制とするなど旧来の制度を改革し、名実ともに一夫一婦制を確立した。

しかし戦前に皇室担当記者だった藤樫準二によれば、香淳皇后が皇子に恵まれなかった頃、「(元宮内大臣の田中光顕が)しかるべき側女を推薦して“親王”の御降誕をはかるべきであると、側近幹部に対し再三進言してきたという噂もとんでいた」という

【参考・引用文献】

○藤樫準二著「千代田城」(光文社)

○牧野伸顕記、伊藤隆ほか編「牧野伸顕日記」(中央公論社)

○宮内庁編「昭和天皇実録」20巻

○木戸日記研究会校訂「木戸幸一日記〈上〉」(東京大学出版会)

○永積寅彦著「昭和天皇と私」(神道文化会)

○高橋紘著「人間 昭和天皇〈上〉」(講談社)

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