第108回 お世継ぎ(2)天皇自ら提灯を手に………帝都は光の輪に包まれた

昭和天皇の87年

天皇自ら提灯を手に… 帝都は光の輪に包まれた

第108回 お世継ぎ(2)

皇太子(天皇陛下)がお生まれになった昭和8年12月23日、帝都の夜は、光の輪につつまれた。

翌日の読売新聞が書く。

「空は光の交叉(こうさ)-地上は奉祝旗の波、街頭に流れる灯の行列が空のそれと喜びの双曲線を描き出す-巷(ちまた)に喜びは溢(あふ)れてラウドスピーカーを流れるラヂオの奉祝放送が行人に感激と喜びのステップを踏ませる-われらの皇太子殿下御生誕の夜の街頭風景だ

帝都だけではない。

この日、日本中の都市が、町や村が、眠りを忘れた。

各地で提灯行列が行われ、万歳が繰り返され、日の丸の小旗が打ち振られた。

昭和恐慌や満州事変で内外の情勢は悪化したが、その流れが一変する兆しを、誰もが感じていた(※1)。

24日の東京朝日新聞が書く。

「皇太子殿下御誕生! このお喜びは全日本に偉大なる『活(かつ)』を入れて、ものみなは一ときに明るく、朗らかに生き生きと新たなるスタートを始めた。

止まつてゐた針も思はずはづんで健康な針音と共に動き出すかと思はれるばかり、あらゆるものが、明るい」

事実、この年の歳末は、皇太子景気とも呼べる活気にわいた。

株価も上昇し、新聞には企業がこぞって奉祝広告を出した。

当時の新聞広告は、こんな調子である。

「奉祝 うぶ湯の時から花王石鹸」「国民 聖代を寿(ことほ)ぎ こぞりて乾杯せむ 蜂ブドー酒」「ばん ばんざい! 僕ら 子供は カルピスで御祝盃!」「在伯十五万同胞も歓喜の声に南米の広野を揺がさん ブラジル珈琲」…

24日朝、香淳皇后は皇太子に初の授乳を行い、昭和天皇も何度か産殿に足を運んだ。

「皇太子殿下にはすやすやといとも御安らかに御安眠遊ばされ(中略)丸々と御ふとらせ給ふ御様子は御健全そのもの…」と、25日の読売新聞に記されている。

29日、命名の儀。昭和天皇は、明治3年に明治天皇が発布した詔書の一節から《御名を明仁と命じられ、継宮(つぐのみや)と称される。

また、御印章を榮(えい)と御治定になる》(昭和天皇実録20巻162頁)

この夜、帝都は再び光の輪に包まれた。

紅白の提灯を手にした群衆が二重橋前の広場を埋め尽くし、万歳の声が夜通し響いた。

万世一系の皇統がつながったのだ。

昭和天皇の喜びも一入(ひとしお)だっただろう。

それを、国民とともに味わいたい-。

《夜、御車寄より御徒歩にて二重橋鉄橋上にお出ましになり、東京市民奉祝の提灯行列を御覧になり、御自ら提灯をお手に打ち振られ、君が代と万歳の三唱に御答礼になる》(同20巻163頁)

× × ×

明くる昭和9年、宮中は、穏やかな新春を迎えた。

1月2日《(昭和天皇は)しばしば御静養室にお出ましになり、皇太子御分娩以来御静養中の皇后、及び皇太子と御対面になる。

翌三日以降も折に触れ御静養室にお出ましになる》(同21巻2頁)

ところで、皇太子ご誕生後の宮中の課題は、養育方針をどうするかだ。

昭和天皇と香淳皇后は、学齢期になられるまで膝元(ひざもと)で養育したいと考えたが、元老の西園寺公望らは否定的だった。

将来、万人を赤子とする皇位を継がれるにあたり、あまりに濃密な親子関係は好ましくないと考えたのだろう。

過保護になるかもしれない、という懸念もあった。

戦艦扶桑の分隊長となっていた弟の宣仁親王(高松宮)も、1月7日の日記にこう書いている。

「新宮が御誕生になつて皆大よろこびだ。併しお兄様も御仝感の様だが、やはり御教育方法が心配になる。

(中略)両陛下は共に極めて御やさしい。おそらくほんとに御叱りになることはあるまい。

(中略)育て方が弱々しくされることによつては男さんについてはたしてどうであらうか」(※2)

× × ×

世継ぎとなる皇子は、臣下の家で養育されるのが宮中の慣例だ。

明治天皇は公家の中山忠能(ただやす)のもとで、大正天皇も同じ中山家で育てられた。

昭和天皇も生後70日で大正天皇(当時は皇太子)から離され、枢密顧問官の川村純義に預けられている。

だが、その頃とは時代が違う。

昭和天皇と香淳皇后は、第1子の成子内親王が6歳で女子学習院に入学するまで膝元で養育しており、今回もその意向だった。

のちに侍従次長となる木下道雄は日記(昭和20年11月11日付)に、昭和天皇のこんな言葉をつづっている。

「御幼少の頃、両陛下との御交り、即ちお膝許の御生活はなかりし。

御親しみも従って薄し。

渡英のとき、Prince of Wales(エドワード英皇太子)から、毎日両陛下に逢わるるかと尋ねられて困ったとのお話あり」

昭和天皇は、皇太子に同じ思いをさせたくなかったのだろう。

一方、西園寺らは、同居は3歳くらいまでと考えた。

そもそも天皇と皇后の日常は極めて多忙だ。

養育に力を注ぐことが困難なうえ、臣下が「無限の恭敬と絶対の臣従」で奉仕する宮中の環境は、養育の場にふさわしくない。

皇太后(貞明皇后)も早くから別居が望ましいと側近らに伝えていた(※2)。

結局、皇太子は3歳で皇居を離れ、赤坂の東宮仮御所に移られることになる。

しかし、それまでは親子一緒だ。

皇太子が順調に成長されるのをみながら、昭和天皇は、新たな決意で時代と向き合うようになる--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 皇太子のご誕生を新しい時代の幕開けと感じる風潮は、当時の文化人にもみられ、日露戦争時の「君死にたまふことなかれ」で知られる歌人の与謝野晶子も、誕生翌日の読売新聞に「新しき 光さし出づ あなかしこ 東方の主を おん父として」の奉祝歌を寄せた

(※2) 宮中には同居を可とする意見もあり、侍従長の鈴木貫太郎はのちに「(昭和天皇の)御願望を達成させてあげたいと努力したが、どうしても駄目だった。

貞明皇后と西園寺が旧慣をガンとして割らなかったからだ」と語っている

【参考・引用文献】

○昭和8年12月24日の東京朝日新聞

○宮内庁編「昭和天皇実録」20巻、21巻

○高松宮宣仁親王記「高松宮日記」2巻(中央公論社)

○木下道雄記「側近日誌」(文芸春秋)

○伊藤之雄著「昭和天皇伝」(文芸春秋)

○高橋紘著「人間 昭和天皇〈上〉」(講談社)

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