第109回: 軍紀 陸軍の手綱を締める天皇 「針一本すら無駄にするな」

昭和天皇の87年

陸軍の手綱を締める天皇 「針一本すら無駄にするな」

第109回 軍紀

昭和9年1月23日、満州事変時の朝鮮軍司令官、林銑十郎が陸相に就任した。

昭和天皇は、侍従武官長の本庄繁(※1)を呼んで言った。

「林陸相に対し、軍人勅諭の精神を遵奉して軍を統率し、再び五・一五事件のごとき不祥事件が起こることのないよう伝えよ」

前年の五・一五事件後も、青年将校らによる不穏な動きがくすぶっていた。

だが、政府に軍部を押さえる力はなく、昭和天皇は自ら軍紀の厳正を徹底させようとしたのだ。

3日後の1月26日、再び本庄を呼んで言った。

「今朝の新聞によれば、陸海両相が議会で、軍人が政治を論じ研究するのは必ずしも不当ではないと答弁したようだが、研究も度を過ぎて、悪影響を及ぼすことがあってはならない」

さらに2月8日、「農村出身の下士官兵と身近に接している将校らが農村の悲境に同情し、政治に関心を持つのはやむを得ないが、持ちすぎると害があり、不可である」-

× × ×

それまで昭和天皇は、立憲君主としての立場を重んじ、内大臣ら古くからの側近に意向を漏らす程度にとどめていた。

だが、皇太子(天皇陛下)がお生まれになったことをきっかけに、自身の考えを、より積極的に表に出そうとしたようだ。

陸軍予算が議会を通過した3月16日の翌日、参謀総長と陸相に言った。

《天皇は両名に対し、予算は通過したとはいえ、すべて国民の負担であり、針一本すらも無駄にしないよう御注意になる》

(昭和天皇実録21巻42頁)

× × ×

昭和天皇は、軍を不快に思っていたわけではない。

一般の将兵には限りない厚情を示し、観兵式をはじめ軍務をおろそかにすることはなかった。

ただ、昭和天皇にとって軍事と政事に優劣はなく、軍人も文民も同じ国民だ。

満州事変以降、何事も軍事が優先される風潮が強かったのを、正そうとしたのだろう(※2)。

こうした意向は軍上層部に徐々に浸透していき、さらなる暴走の歯止めになったとみていい。

新春を迎えた昭和天皇は、意気軒高だったようだ。

内大臣府秘書官長だった木戸幸一の日記によれば、木戸は1月26日、元老の西園寺公望にこう報告している。

「聖上の御健康は益々御佳良にて、皇太子御降誕以来、御気分も殊に朗なり」

「東宮の御体質は内親王方よりもよく、一ヶ月目の御体重は一貫五十八匁なり」

× × ×

一方、テロリズムの脅威が薄まるにつれ、今度は別の方面に不穏な動きが出てくる。

政党とファッショ勢力が結託し、倒閣工作が活発化してきたのだ。

議会第一党、政友会による倒閣工作は、早くも五・一五事件の半年後、昭和7年11月半ば頃から始まっていた。

当時の同党幹部らの考えは、こうである。

〈犬養毅首相の暗殺後に成立した斎藤実内閣は、政局の混乱が落ち着くまでのピンチヒッターにすぎない。

政友会と民政党の二大政党が交互に組閣する憲政の常道こそ、あるべき姿だ。

政友会総裁に大命降下する日は、そう遠くないだろう〉-

だが、秋になっても総辞職する気配がないのをみて、同党幹部らは焦りはじめる。

〈このままでは、非政党内閣が常態化してしまう。

政党のトップになっても首相になれず、幹部らの大臣ポストも遠のくだろう。

何とかして、内閣総辞職に追い込めないものだろうか〉-

倒閣工作にあたり、幹部らが目をつけたのは、蔵相の高橋是清だ。

斎藤内閣の大黒柱となっていた高橋を辞めさせれば、内閣は瓦解(がかい)するに違いない。

8年1月のある夜、政友会総裁の鈴木喜三郎が高橋の私邸をひそかにたずねた。

辞職を促す鈴木に、高橋はこう言ったという。

「どうせわが輩も健康がすぐれないから、時局が許すならば、議会後にやめたい。

この際、政友会としては現内閣を支持し、円満に政権が授受されるようにしたほうがよいだろう」

すでに首相を経験している高橋に、執着心はない。

かつて政友会総裁も務めており、憲政の常道に戻したいという思いもある。

そこで後輩の鈴木に、予算成立などで協力すれば辞職すると示唆したのだ。

鈴木や同党幹部らは雀躍(じゃくやく)し、高橋の発言を「黙契」として喧伝(けんでん)した。

驚いたのは首相の斎藤である。

斎藤は元老の西園寺に相談した上で、高橋に言った。

「公爵(西園寺)も、とにかく引続き一層努力してみたら、といふ御意見だつたし、こゝはなんとか一つ考へ直してもらひたい」

× × ×

高橋の進退をめぐり、8年4~5月の政局は揺れに揺れた。

閣僚の大半が留任を求め、高橋は5月に辞意を撤回したものの、それでは政友会がおさまらない。

以後、政府と議会の関係は悪化し、政友会内部の派閥争いも激化する。

政党の混乱をみて、ファッショ傾向の強い司法界の重鎮、枢密院副議長(元大審院検事総長)の

平沼騏一郎を中心とする勢力も倒閣に動き出した。

斎藤内閣の支持基盤は、一気に弱体化したといえるだろう。

そして9年1月、ある新聞の連載記事が政界、財界、官界を巻き込んだ奇怪な疑獄事件に発展し、斎藤内閣にとどめを刺す--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 満州事変時の関東軍司令官だった本庄繁は昭和8年4月、定年で退任する奈良武次にかわり、侍従武官長となった。

昭和天皇はその際、満州事変の功績を武官長就任の理由とすることに同意しなかった

(※2) 昭和天皇実録によれば、昭和天皇は8年3月、国際連盟脱退の詔書を出す際にも、文官と武官を同列に督励することを強く意識していた

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」21巻

○本庄繁記「本庄日記〈普及版〉」(原書房)

○木戸日記研究会校訂「木戸幸一日記〈上〉」(東京大学出版会)

○原田熊雄述「西園寺公と政局」2、3巻(岩波書店)

○今村武雄著「三代宰相列伝-高橋是清」(時事通信社)

 

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