第111回 「何と神々しい……..」天皇を仰ぎ見た学生は、のちに首相となった

昭和天皇の87年

「何と神々しい…」 天皇を仰ぎ見た学生は、のちに首相となった

第111回 苦楽を共に

岡田啓介内閣の発足から3カ月後、昭和9年10月1日、昭和天皇は、皇居内につくられた水田で稲刈りをしていた。

《まず農林一号、続いて信州早生の稲を刈り取られ、終わって愛国・撰一・小針糯(いずれも稲の品種)等の成熟状況を御覧になる》と、昭和天皇実録に記されている(21巻143頁)。

昭和天皇が自ら稲作をするようになったのは、即位して間もない昭和2年の春からだ。

赤坂離宮に住んでいたころは2畝20歩(約265平方メートル)を耕し、皇居に移ると面積を2倍に広げ、全国から取り寄せたさまざまな品種を毎年育てた。

春は水田に膝まで没して苗を一つ一つ植え、秋はたわわに実った稲穂を鎌で収穫する。

多忙な公務の合間をみて、その後も脱穀から精白まで米づくりの全作業を侍従らとともに行った。

昭和天皇は、農家の苦労を少しでも分かち合いたかったのだろう。

× × ×

この年、昭和9年の東北地方は冷害で記録的な凶作に見舞われ、幾つかの小村が飢餓に直面するなど深刻な状況にあった。

岩手県などの農村を視察した社会主義者の山川均が、こう書いている。

「子供は驚くほど生れて、驚くほど死んでゆく。

岩手郡の御堂村は、乳児死亡率九◯%だといふから驚くのほかない。

奥中山でも、栄養不足のためだらう、眼の見えなくなるのが、ことに年寄りに多かつた。

こうなると飢餓の問題ではなくて、なし崩し的な餓死なのだ」

「蒲団(ふとん)のある家は、まづ一軒もないと云つていゝだらう。

たゞ床張りの片隅に、長いまゝの藁(わら)が置いてある。

でなければ鼠(ねずみ)の巣のようにボロ屑(くず)が積んである。

その中へもぐつて寝るのだ。

(中略)新屋新町付近の農家を訪づれたときのことだが、ふとその中のボロ屑が動いたので、私は猫かと思つたが、よく見ると赤ん坊だつた」

発足したばかりの岡田内閣は、農村救済に予算をつぎ込んだ。

しかし、当時は社会保障制度が十分ではなく、政府のできることには限界があった。

「今思いだしても涙を催すような哀話ばかりだった。

東北地方から上野に着く汽車で、毎日のように身売りする娘が現れたのもそのころで、身売り防止運動が盛んに行われていた」と、のちに岡田自身が述懐している。

こうした中、つねに国民と苦楽をともにしようとする昭和天皇の姿勢は、多くの人々に勇気と希望を与えたに違いない。

× × ×

昭和天皇は地方に行幸すると、分刻みのスケジュールで現地の小中学校や商工業施設を視察して回った。

その姿をみて、国民がどれほど励まされたかが、各地の郷土資料などに残されている。

昭和9年11月、群馬県に行幸した昭和天皇を仰ぎ見た旧制高崎中学(現群馬県立高崎高校)の学生は、同校の機関誌にこう書いた。

「実に何たる神々しい御姿であらうか、純白な台の上に夕日を浴びて立たせ給ふた 聖上陛下の御英姿、燦然(さんぜん)として夕日に映ゆる 天皇旗実に神々しさの極致であると申上げてよい。

現人神の尊厳に自然頭が垂れて感激の涙が浮ぶ」

「我々は、しみじみと日本人に生れた幸福を味ふことが出来た。

そして何となく天地がひろびろして、三山も一層秀麗さを増した様な気がした。

空は相変らずすつきりと晴れてゐた」

あふれんばかりの感激をつづった学生の名は中曽根康弘、のちの首相である。

× × ×

昭和天皇の公務は多忙だ。

この年の4月に公表された侍従長謹話によると、前年の公務で、内閣などからの上奏の裁可件数は6300件以上、宮中での賜謁者数は2100人以上、陪食者数は650人以上、進講回数は125回に及んだ。

心労は尽きないが、皇太子(天皇陛下、5月1日からは上皇陛下)の御誕生もあり、家族生活は円満だった。

4人の内親王にも等しく愛情を注ぎ、なごやかにふれ合う様子が、昭和天皇実録にちりばめられている。

昭和9年1月20日《呉竹寮(※1)にお出ましになる。

以後、土曜日・日曜日を中心にしばしばお出ましになり、内親王と御一緒に過ごされる》(21巻10頁)

7月21日《午前七時より、成子内親王と御一緒に、上直の侍従・侍従武官を御相手にラジオ体操をされる》(21巻112頁)

ところで昭和天皇は、運動不足を解消するため定期的にゴルフをしていた。

ただし上手とはいえず、むしろ結婚後にはじめた香淳皇后のほうが筋が良かったようだ

9月3日《ゴルフ大会を催される。天皇・皇后及び男女供奉員から成る全二十一名の参加者は七組に分かれ、天皇は皇后・西園寺八郎と組まれてコースを廻られる。

競技の結果、天皇は第七等、皇后は第一等を獲得され…》(21巻127頁)

香淳皇后とは同年春、結婚10年を迎えた。

2月26日には家庭的なパーティーを開き、皇后や内親王と一緒に《皇太子時代の御姿を写した活動写真や喜劇映画、パラマウント・ニュース等を御覧になり、さらに内庭において侍従職・皇后宮職職員による仮装行列を御覧になる》(同21巻47~48頁)

悲しい別れもあった。

5月30日《元帥海軍大将東郷平八郎は午前六時二十五分全く危篤となり、七時死去する。

天皇は当番侍従よりこの旨をお聞きになり、追悼の意味を以てこの日の御運動をお控えになる》

(21巻86頁)--(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 呉竹寮は第1皇女子(長女)の成子内親王が学齢期に達した際、皇居敷地内の旧江戸城本丸跡地に新築された修学所。

内親王は昭和7年春以降、呉竹寮に移り、昭和天皇と香淳皇后の膝元から離れて暮らした

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」21巻

○藤樫準二著「陛下の“人間”宣言」(同和書房)

○山川均著「東北飢餓農村を見る」(雑誌「改造」昭和9年12月号収録)

○岡田貞寛編「岡田啓介回顧録」(毎日新聞社)

○中曽根康弘著「聖駕を迎へ奉りて」(群馬県立高崎中学校内校友会発行「群馬」所収)

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