第112回 ナチス台頭 アドルフ・ヒトラー登場

昭和天皇の87年

アドルフ・ヒトラー登場 ファシズムの風が、極東でも吹きはじめた

第112回 ナチス台頭

岡田啓介内閣が発足した昭和9年、欧州では、ファシズムの嵐が吹き荒れていた。

台風の目となったのは、ナチス・ドイツである。

 話は15年前にさかのぼる。

1919(大正9)年の初秋、ドイツ南部の都市ミュンヘンで、反ユダヤ、反共産、反資本主義を掲げる小政党に、軍属情報員の男が入党した。

名前はアドルフ・ヒトラー。

過激な演説でたちまち党員の心をつかみ、やがてフューラー(指導者)と呼ばれるようになる。

 小政党は翌年、国家社会主義ドイツ労働者(NSDAP、いわゆるナチス)と改名し、ヒトラーのカリスマ的指導の下、急速に勢力を伸ばしていく。

発足時は千人足らずだった党員数が5年後には2万7千人、8年後は10万9千人、10年後38万9千人、13年後390万人と、一気に増大した。

 1933(昭和8)年1月、ナチスは政権を獲得。

首相となったヒトラーは同年2月以降、ドイツ共産党などへの大弾圧を行い、3月には全権委任法(民族及び国家の危機を除去するための法律)を制定した。

ヒトラー政権に無制限の立法権を付与する、究極の非常事態法だ。

ここに、ドイツの議会制民主主義は抹殺され、ナチスによる一党独裁体制が確立したのである。

× × ×

 1920年代にベニート・ムソリーニが独裁体制を築いたイタリアと並び、ドイツにファシズムが形成された背景には、第一次世界大戦後のベルサイユ体制に対する不満とコミンテルン(共産主義インターナショナル)に対する脅威がある。

 ドイツに過酷な賠償金を押しつけた1919年のベルサイユ条約と英仏が主導するベルサイユ体制は、ドイツの一般国民をどん底に突き落とした。

コミンテルンが指導する共産革命運動の世界的な広がりは、資本家層を震え上がらせた。

この2つの“疫病神”を、独裁による全体主義で追っ払ってくれるファシズム-。

ドイツの各界各層はヒトラーの演説に酔い、熱狂的な拍手をおくった(※1)。

× × ×

 当時、ナチスの躍進は日本でも大きな話題となり、宮中に思わぬ珍事をもたらした。

ドイツで唯一、ヒトラーを抑えられる存在だった大統領のヒンデンブルクが1934(昭和9)年8月2日に死去したとき、昭和天皇は弔電をおくったが、その宛先を宮内省などのミスで間違えてしまうのだ。

 昭和天皇実録によれば、《弔電は同国首相アドルフ・ヒトラーが大統領に就任したとの認識のもと新大統領に宛てられたが、ドイツ国においてはそのような事実はなく、七日、首相たるアドルフ・ヒトラーより礼電が寄せられる》(21巻118頁)。

こんなところにも、ヒトラーの存在感の大きさがうかがえよう。

 欧州のファシズムが、日本に及ぼした影響は小さくない。

資源の少ない国として、全体主義によって危機を乗り切ろうとするファッショの動きが、この頃から勢いづいていくのだ(※2)。

 昭和天皇が全体主義に強い警戒感を持ち、五・一五事件後の首相選定の際、「ファッショに近き者は絶対に不可なり」との意向を示したことはすでに書いた。

だが、時代の流れをとめることは難しい。

 昭和9年10年2月、帝国議会で取り上げられたある問題が、穏健路線の岡田内閣を揺さぶり、全体主義の風潮に拍車をかけることになる--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) ナチスが躍進した背景には、弾圧におびえて反対運動ができなかったという側面もある

(※2) 絶対的な指導者が独裁体制を築いた独伊と、1年前後で内閣がめまぐるしく替る日本とでは、ファシズムを同列に論じられないとする指摘もある

【参考・引用文献】

○山口定著「ファシズム」(有斐閣)

○宮内庁編「昭和天皇実録」21巻

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