第115回 皇道派と統制派 軍務局長を惨殺 「陸軍はバラバラになった」

昭和天皇の87年

軍務局長を惨殺 「陸軍はバラバラになった」

第115回 皇道派と統制派

天皇機関説問題で議会、政府、宮中が揺れた昭和10年、陸軍も、かつてない混乱をきたしていた。

いわゆる皇道派と統制派の派閥争いが、激化したのである。

陸軍内に派閥があり、対立していると昭和天皇が耳にしたのは前年の春からだ。

 昭和9年3月2日《(昭和天皇は)侍従武官長本庄繁をお召しになり、昨日外務大臣に賜謁の折、御下問に対し、軍部内部の派閥間の対立と意見の相違のために困難を生じていると奉答があったとして、かかる事実の有無について御下問になる》(昭和天皇実録21巻34頁)

大正期までの陸軍は、元老の山県有朋ら長州閥がにらみを利かし、政府に悪影響を及ぼすような派閥争いはほとんどなかった(※1)。

昭和に入ると長州閥は後退し、陸相だった宇垣一成の統制力が強まる。

しかし宇垣は昭和6年3月、参謀本部の中堅将校らが画策したクーデター未遂事件(三月事件)で中堅将校や青年将校らの反感を買い、主流から外れた。

かわって青年将校らの信望を集めたのは、犬養毅内閣で陸相となった荒木貞夫だ。

日本軍隊の正式用語を「国軍」から「皇軍」に改称した精神主義者の荒木は、陸相となるや親友の真崎甚三郎を参謀次長に起用するなど、陸軍要職を自派で固めて一大勢力を築いた。

いわゆる皇道派である。

荒木は、青年将校らの人心掌握が巧みだった。

上官に対する無礼な振る舞いも「元気がいいのう」の一言で許し、過激思想を抱く急進派から絶大な人気を集めた。

半面、下克上的な風潮を助長したともされる。

一方、荒木ら皇道派の勢力拡大に危機感を抱いたのは、陸軍随一の英才といわれた永田鉄山を中心とするグループ、いわゆる統制派だ。

軍の組織力、統制力で国家改造を進めようとする永田らは、無軌道な青年将校らを抑えようとした。

昭和9年1月に荒木が陸相を辞任し、前朝鮮軍司令官の林銑十郎が後任になると、やがて陸軍内の勢力図は一変する。

昭和天皇が侍従武官長の本庄に、派閥についてただしたのもこの頃だ。

当時、昭和天皇が軍紀の厳正を再三指示したことはすでに書いた。

林はそれを重く受け止めたのだろう。

統制派の永田を軍務局長に据えて重用し、皇道派の締め出しにかかった。

だが、林と永田による急激な人事刷新に青年将校らは反発し、さらなる対立を生んでしまう。

昭和10年7月、林は教育総監を務める皇道派の重鎮、真崎甚三郎の更迭を断行し、皇道派一掃の総仕上げとした。

その際、昭和天皇は本庄に言った。

「この人事が、陸軍の統制に波紋を起こすようなことはないか」

昭和天皇の懸念は、1カ月後に現実のものとなる。

× × ×

その日-、昭和10年8月12日は、格別に暑い日だったという。

午前9時45分、陸軍省内の執務室で東京憲兵隊長と面談していた軍務局長の永田は、無言で入室してきた男の存在に、最初は気付かなかった。

殺気を感じて振り向いたとき、男は、すでに軍刀を抜いていた。

とっさに立ち上がり、逃げようとした永田の背中に白刃一閃(はくじんいっせん)、軍刀は振り下ろされた。

男は、なおも逃げようとする永田の背中に軍刀を突き刺し、側頭部を叩き斬った。

制止しようとした東京憲兵隊長も振り払い、左腕に重傷を負わせた。

男の名は相沢三郎、陸軍歩兵中佐である

犯行当時は45歳、長身巨漢、剣道4段の達人で、当時の新聞報道によれば「純情朴直にして尊皇の念厚きものがあったが単純の嫌いあり、(中略)時々矯激にして常軌を逸するの恐れ」があった。

歩兵第41連隊に所属していたが、同月の人事異動で台湾転勤を命じられ、その直前に凶行に及んだのだ。

相沢は、皇道派にシンパシーを抱いていた。

敬愛する教育総監の真崎が更迭されたことに憤慨し、統制派の領袖(りょうしゅう)である永田を斬れば、陸軍は「正道」に戻ると信じていた。

自身の行為が重大犯罪とは思わず、憲兵隊に拘束後、今後どうするつもりかと聞かれて「さあ(台湾の)任地へ行くべきだろう」と答え、正気を疑われている。

× × ×

一方、斬られた永田はどうなったか。

騒ぎを聞いて軍務局長室に駆け込んだ同局政策班長の池田純久が見たのは、凄惨(せいさん)な血の海だった。

「局長は鮮血に染つて、片肘をついて絨毯(じゅうたん)の上に倒れている。

まだ息はあるようだ。でも頭は、ざくろのように割れて、そこからドクドクと血が迸(ほとばし)り出ている。

(中略)暫くして最後の息を大きく吸つて、ガックリと首を垂れてしまつた」

統制派を主導し、皇道派の暴発を抑えようとした永田は、尉官時代から「将来の陸相」といわれていた。

陸軍士官学校と陸軍大学を抜群の成績で卒業。

陸軍省軍事課長、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などの要職を歴任し、一糸乱れぬ軍の統制力により、憲法の枠内での国家改造を遂げようとしていた。

「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」といわれた、陸軍随一の英才の死-。

白昼の惨劇により陸軍は「バラバラになつて目茶苦茶になつた」と、同じ統制派の池田が述懐する。

永田の死後、統制派の中心となったのは1年後輩の東条英機、日米開戦時の首相だ。

池田は言う。

「頭脳の上では東条大将も仲々切れていたが、永田中将のそれには到底及ばない。

(中略)永田中将が存命だつたら日本歴史の歯車は逆転していたであろう」

(※2)--(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 大正期の陸軍にも上原勇作元帥を中心とする薩摩閥、宇都宮太郎大将を中心とする佐賀閥などがあったが、山県有朋の存命中は長州閥に対抗できなかった

(※2) 事件当時、永田も東条も少将だったが、永田は殉職で中将に特進、東条は首相就任の際に大将となった

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」21巻、22巻

○池田純久著「統制派と皇道派」(雑誌「文芸春秋」昭和31年11月特別号収録)

○秦郁彦著「軍ファシズム運動史」(原書房)

○本庄繁記「本庄日記〈普及版〉」(原書房)

○永田鉄山刊行会「秘録 永田鉄山」(芙蓉書房)

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