第116回 溥儀来日 皇帝にも敬礼せず…….軍旗はそんなに偉いのか

昭和天皇の87年

皇帝にも敬礼せず… 軍旗はそんなに偉いのか

第116回 溥儀来日

天皇機関説問題や永田鉄山斬殺事件で、ファッショの高まりが鮮明になった昭和10年だが、国民の万歳が響きわたるニュースもあった。

 満州国の皇帝、溥儀が来日したのだ。

 4月6日《満州国皇帝溥儀(ふぎ)は御召艦比叡にて横浜港に御入港になり、雍仁(やすひと)親王の出迎えを受けられ御上陸、御入京になる。

天皇はお出迎えのため、午前十一時十分御出門、東京駅に行幸される。

(中略)十一時三十分、御召列車御到着、天皇は挙手の御敬礼にて皇帝を出迎えられ、雍仁親王の紹介にて御対面になり、握手をされる》(昭和天皇実録22巻38頁)

 1932(昭和7)年3月に建国した満州国は2年後に帝政を敷き、執政の溥儀が皇帝に即位した。

その際、日満親善のため雍仁親王が渡満し、昭和天皇の祝意を伝えた。

溥儀の来日は、その答礼である。

 日本側は、溥儀を最大級の国賓として、官民挙げて奉迎した。

入京の日、東京駅には正装の皇族、閣僚、軍幹部らが整列して出迎え、宿舎にあてられた赤坂離宮までの沿道は、日章旗と満州国旗を打ち振る4万5千人の群衆で埋め尽くされた。

 翌日の読売新聞が書く。

 「かくばかり栄光の、かくばかり感激の日が世にあらうか! 三千年の皇統を戴(いただ)くわが九千万同胞と清朝三百年の歴史を嗣ぐ五協三千万国民とがひとしくたからかに『万歳』を叫び『万歳(ワンソイ)』を唱へて、いや固き日満親善の手と手を握りしめた日、(中略)皇紀の青史を飾る忘れ難きこの日よ!」

 昭和天皇は、真心をこめて溥儀に接した。

夜には歓迎の晩餐会を開き、こうあいさつした。

 「陛下 朕(ちん)ハ新ニ興レル隣邦ノ元首タル陛下ノ御来訪ヲ受ケ 衷心愉悦ノ情ヲ禁スル能ハス 茲ニ深ク歓迎ノ意ヲ表シマス」

 続いて溥儀が答辞を述べる。

 「両陛下ニハ特ニ朕ノ為ニ宴ヲ設ケラル 慇懃(いんぎん)ナル友愛ノ至情 洵(まこと)ニ感謝ノ至ニ勝ヘス」

 会食後は皇居の正殿で舞楽が催され、翌日の東京日日新聞によれば「畏(かしこ)くも天皇陛下には曲目を御手に御隣席の皇帝陛下に時折御説明遊ばされ皇帝陛下にはいと御熱心に御覧、日本の崇高なる芸術に御感慨一入(ひとしお)であらせられた」。

 溥儀は滞日中、明治神宮を参拝したり、歌舞伎座で十八番の演目「勧進帳」を観劇したりした。

この間、帝都の市民はこぞって歓迎、各地で奉迎行事が開かれ、花電車が走り回った。

 最大のイベントは、4月9日に挙行された陸軍観兵式だ。

しかし、ここで問題が起きる。

軍旗が、溥儀に敬礼しなかったのである。

× × ×

 軍旗-。それは帝国軍人にとって、神聖かつ絶対の存在だ。

天皇から直接親授(しんじゅ)される軍旗は天皇の分身とされ、その下で軍人は死地にも赴く。

 軍旗は、天皇の前では水平に傾けられ、敬礼する。

しかし天皇以外には、たとえ皇族であっても敬礼しない。

軍旗の方が上位だからだ。

 この慣例が、溥儀の来日にあたり問題となった。

観兵式の際、溥儀に軍旗を傾けたくないと、陸軍が強硬に主張したからである。

 昭和天皇は、驚くよりも呆れたのではないか。

そもそも溥儀を担ぎ出して満州国の元首としたのは、陸軍である。

当初は反対だった政府も、陸軍におされて満州国を承認した。

今や政府も宮中も、溥儀を対等の国家元首として迎えようとしているのに、陸軍の対応は国際儀礼上、非礼といえよう。

 侍従武官長を務める本庄繁の日記によれば、溥儀の来日前、昭和天皇は本庄に言った。

 「朕は、一兵卒に対しても答礼を為すに、軍旗は朕の敬意を払う賓客に答礼せずとは、軍旗は朕より尊きか」

 本庄は恐懼(きょうく)しつつ、「国軍の忠勇は実に崇厳なる軍旗に負ふ所多し、従て軍旗に対する信仰を、幾分にても減ずるが如き事は御許し願ひたし」と深く頭を下げた。

× × ×

 昭和10年4月9日、代々木練兵場で挙行された陸軍観兵式は、荘厳そのものだった。

近衛師団1万2千の精鋭は、昭和天皇と同列で閲兵する溥儀に特別丁重な敬礼をささげた。

 だが、軍旗が傾くことはなかった。

 もっとも、内情を知らない溥儀は観兵式に大満足だったようだ。

昭和天皇の真心のこもった応接も、溥儀の自尊心をくすぐったことだろう。

 各種の歓迎行事を終えて離日した溥儀は、のちにこう書いている。

 「日本皇室のこのもてなしによって私はますます熱にうかされ、皇帝になってからは空気さえ変ったように感じた。

私の頭には一つの論理が出現した。

天皇と私とは平等だ、天皇の日本における地位は、私の満州国における地位と同じだ、日本人は私にたいして、天皇にたいするのと同じようにすべきだ…」

 残念ながら溥儀は、絶対権力ではなく最高権威として君臨する天皇の地位を、少し勘違いしていたようだ。

この勘違いがやがて溥儀を苦しめることになる。

× × ×

 ところで昭和10年の晩秋、全国の町や村に、もう一つの万歳が響いた。

 11月28日《午前五時、(昭和天皇は)侍従牧野貞亮より皇后が産殿に入られた旨の奏上を受けられ、直ちに御起床になる。

七時五十七分、親王が誕生し、即刻、侍従小出英経より報告を受けられる。

(中略)九時、親王と御対面になる》(昭和天皇実録22巻154頁)

 この日は終日曇天だったが、親王がお生まれになった一瞬だけ、雲の切れ間から皇居に陽が差した。

「不思議に思はれた」と、侍従の入江相政が日記に書いている。

 皇太子(天皇陛下)につぐ皇位継承資格者のご誕生だ。

母子ともに健康で、昭和天皇の喜びも大きかっただろう。

皇族や首相、重臣、側近らも続々と参内し、シャンパンで乾杯して大騒ぎとなった。

 12月4日、昭和天皇は親王に正仁と名付け、義宮の称号をおくった。

のちの常陸宮さまである。

 皇太子も順調に成長されていた。

 12月23日《皇太子誕辰(満2歳)につき、(中略)御学問所において内宴を催され、皇太子・成子内親王・和子内親王・厚子内親王と御会食になり、宮内大臣湯浅倉平以下の側近高等官四十二名に御陪食を仰せ付けられる》(22巻167~168頁)

 年が明けてからも、宮中では穏やかな日が続いていた。

 昭和11年1月4日《午後、この年初めて生物学御研究所にお出ましになる。以後、主に土曜日と月曜日に同所にしばしばお出ましになり、研究をされる》(23巻3頁)

 1月18日《午後、この年初めて呉竹寮にお出ましになり、成子内親王・和子内親王と御一緒に過ごされる。以後、土曜日または日曜日に呉竹寮に度々お出ましになる》(23巻9頁)

 2月5日《午後、天皇は、(前日から雪が降り積もった)内庭において、侍従・侍従武官等を御相手にスキーをされる。

以後、連日スキーをされ、九日には、参内の成子内親王・和子内親王のソリ遊びを御覧になりながらスキーをされる》(23巻16頁)

 だが、昭和天皇は知らなかった。

そのころ、皇道派と統制派の派閥争いで揺れる陸軍で、一部の青年将校らが秘密裏に会合を重ねていたことを-。

永田鉄山斬殺事件に刺激を受けた彼らは、日本の歴史を変えるような大謀略を練っていたのだ。

 この年、昭和11年の冬、帝都はたびたび大雪に見舞われた。

とくに2月23日未明からは吹雪となり、記録的な積雪をもたらした。

 一面の空を覆う暗雲-。帝都は、2月26日の朝を迎えようとしていた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週からは、日本の運命を変えた「二・二六事件」編を連載します)

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」22巻、23巻

○昭和10年4月7日の東京朝日新聞

○昭和10年4月8日の東京日日新聞、読売新聞

○本庄繁記「本庄日記〈普及版〉」(原書房)

○林出賢次郎著「扈従訪日恭紀」(満州帝国国務院総務庁情報処)

○愛新覚羅・溥儀著「わが半生〈下〉」(筑摩書房)

○入江為年監修「入江相政日記」(朝日新聞社)1巻

コメントを残す

サブコンテンツ

i2i


サイト内ランキング



アクセスカウンター


このページの先頭へ