第121回 二・二六事件(5) : 決起部隊は義軍にあらず 天皇自ら「暴徒鎮定に当たらん」

昭和天皇の87年

決起部隊は義軍にあらず 天皇自ら「暴徒鎮定に当たらん」

第121回 二・二六事件(5)

帝都の雪を鮮血に染めた二・二六事件の発生からおよそ19時間後、昭和11年2月27日午前零時、昭和天皇は《戒厳令に関する勅令に御署名になる》

(昭和天皇実録23巻29頁)

 前代未聞の反乱に陸軍首脳が狼狽(ろうばい)し、決起部隊を“義軍”扱いするような大臣告示まで発したことはすでに書いた。

そんな中でも昭和天皇は敢然と身を処し、1ミリもぶれなかった。

 午前1時13分《参謀総長代理の参謀次長杉山元に謁を賜い、戒厳司令部の編制及び戒厳司令官の指揮部隊に関する件につき上奏を受けられる。

その際、徹底的な鎮圧を望まれる旨、並びに戒厳令の悪用を禁じる旨の御言葉を述べられる》(同巻同頁)

 午前7時20分《侍従武官長本庄繁をお召しになる。以後、頻繁に武官長をお召しになり、事件の情況を御下問になる。

(中略)この日、天皇は武官長に対し、自らが最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を絞めるに等しい行為である旨の御言葉を漏らされる。

また、御自ら暴徒鎮定に当たる御意志をしばしば示される》(同巻30~31頁)

× × ×

 この揺るぎない姿勢が、決起側になびいていた風向きを変える。

夜が明けると、断固とした処置を望む昭和天皇の意向が徐々に伝わり、情勢は一変した(※1)。

 厳密にいえば、このときの昭和天皇は立憲君主の枠から逸脱していたかもしれない。

天皇は、天皇を補弼(ほひつ)する閣僚らの助言に基づいて行動するのが、大日本帝国憲法下における慣例だからだ。

 しかし当時は最高補弼者の首相が職務を果たせない状態だったうえ、陸相の対応も決起側に流され、的確な措置をとれないことが明らかだった。

昭和天皇は、自ら事態収拾の先頭に立とうと決意したのだろう。

 午前8時45分、昭和天皇は奉勅命令を裁可する。

 「三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ撤シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムべシ」

 決起部隊は原隊に帰れという、大元帥の直接命令だ。

従わなければ逆賊として討伐されることを意味する。

昭和天皇はのちに当時を振り返り、こう語っている。

 「討伐命令は戒厳令とも関連があるので軍系統限りでは出せない、政府との諒解が必要であるが、当時岡田(啓介首相)の所在が不明なのと且又陸軍省の態度が手緩るかつたので、私から厳命を下した訳である。

私は田中内閣の苦い経験(※2)があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟(ま)ち又その進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回丈(だ)けは積極的に自分の考を実行させた」(昭和天皇独白録)

× × ×

 奉勅命令をいつ発動するかは、参謀本部の判断に任された。

陸軍上層部は説得により帰順させる方針を捨てきれず、その発動を遅らせようとしたが、昭和天皇の揺るぎない姿勢に、陸軍部内からも討伐やむなしの声が強まっていく。

その舵を取ったのは、戦略の天才とも鬼才ともいわれた、石原莞爾だった。

 満州事変で名を挙げ、当時は参謀本部作戦課長の要職にいた石原が事件発生の一報を受けたのは、2月26日の早朝である。

すぐに決起部隊が所属する歩兵第1、第3連隊の連隊長に電話し、「軍旗を奉じて出てこい」と指示した。

 天皇の分身とされる軍旗は絶対の存在である。

多くの下士官兵は命令で動いているだけなので、軍旗の下に集まれと連隊長が号令すれば必ず集まる。

それをまとめて連隊に引き上げれば「残るは将校だけだから、間もなく鎮圧できる」と考えたのだ。

しかし、連隊長はそれを実行しなかった。

 参謀本部に駆けつけた石原は、門前で兵士に機関銃を向けられた。

その場で指揮をとっていた決起将校が、石原を呼び止める。

 「大佐殿、今日はこのままお帰りください」

 「何をいうか! この石原を殺したかったら、直接自分の手で殺せ。

兵隊の手をかりて人殺しするとは、卑怯千万な奴だ」(※3)

 石原は統制派ではないが、思想と行動力を危険視され、決起将校らの殺害リストに入っていた。

だが、このときは気迫におされ、誰も引き金をひけなかった。

 以後、石原は参謀本部の部課長会議などで即時討伐を主張。

27日午前3時に戒厳令が公布されると、戒厳司令部参謀に就任し、攻撃準備に着手する。

 ところが…--(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 決起部隊に惨殺された渡辺錠太郎教育総監の妻、鈴子は昭和天皇が自ら討伐する意思を示したことに感動し、娘の和子に「陛下のお陰でお父様の面目が立った。

陛下の御恩を忘れてはいけない」と語り聞かせたという

(※2) 文中の「田中内閣の苦い経験」とは、張作霖爆殺事件の関係者を厳罰処分しなかった当時の田中義一首相に対し、昭和天皇が厳しく叱責し、内閣総辞職につながった問題。

昭和天皇はのちに「あの時はまだ若かつたので言ひすぎた」と反省している

(※3) 石原の言動については諸説あり、事件発生の26日から討伐方針を明確にしていたとする説と、28日に態度を明確にしたとする説がある

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」23巻

○寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著「昭和天皇独白録」(文芸春秋)

○伊藤之雄著「昭和天皇伝」(文芸春秋)

○藤本治毅著「石原莞爾」(時事通信社)

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