第124回 二・二・六事件(8) 決起5人将校15人を処刑

昭和天皇の87年

決起将校15人を処刑 痴となるほどに国を愛せよ

第124回 二・二六事件(8)

日本を震撼(しんかん)させた二・二六事件の背景は複雑だ。

当時の陸軍急進派は民間右翼とのつながりが深く、佐官クラス以上の将校、将官は大川周明の、尉官クラスの青年将校は北一輝や西田税の思想的影響を受けていた(※1)。

いずれも暴力革命を容認し、目指すは武装クーデターによる国家改造である。

特権階級の閣僚、重臣らを倒さない限り、疲弊する農村をはじめ国家を救えないと彼らは考えた。

その発想は、むしろ共産主義勢力に近い。

不穏な動きがくすぶる中、青年将校のリーダー格だった陸軍大尉の村中孝次と一等主計の磯部浅一が昭和9年11月、クーデターを企てたとして逮捕され、やがて免官となった(士官学校事件)。

村中らはそれを統制派の陰謀とみなし、陸軍上層部を公然と批判するようになる。

 村中ら青年将校は、皇道派に共感していた。

10年7月に皇道派重鎮の真崎甚三郎が更迭されたことと8月に統制派筆頭の永田鉄山が斬殺されたことに、彼らは強烈な刺激を受ける。

直接行動を決意するのはその後、同年12月から翌月にかけてだ。

これに対し陸軍上層部は、急進派の多い第1師団を満州に派遣して遠ざけようとしたが、逆効果だったといえる。

上層部の意図を知った村中らは決起を急ぎ、2月21日に満州派遣が公表された5日後、帝都の雪を重臣らの鮮血で染めた。

× × ×

未曾有の事態に陸軍首脳が狼狽(ろうばい)し、当初は決起将校らの暴挙が“義挙”扱いされる雰囲気もあったが、昭和天皇の揺るぎない姿勢により反乱軍として鎮圧されたことは、これまでみてきた通りだ。

決起将校のうち、牧野伸顕内大臣を襲撃した河野寿と、リーダー格のひとりだった野中四郎は自決したが、村中らは軍法会議で決起の趣旨を明らかにする道を選んだ。

その理由を磯部は、「当局者の『死ね、死んでしまへ』といつた残酷な態度に反感を抱き、自決を思ひとどまつた」と書き残している。

7月5日、非公開の特設軍法会議は反乱罪で15人に死刑、5人に無期禁固刑を宣告。村中、磯部らは銃殺刑に処された(※2)。

国民よ国をおもひて狂となり

痴となるほどに国を愛せよ

磯部の時世である。

二・二六事件が、その後の歴史に及ぼした影響は計り知れない。

陸軍は、内に対しては急進派を徹底排除して粛軍をはかるとともに、外に向けては第二の暴発をちらつかせて政治への関与を強めた。

その兆候は、早くも後継内閣の組閣時からみられ、昭和天皇を悩ませることになる--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 北一輝と西田税は二・二六事件に関与し、佐官クラスが画策した昭和6年の三月事件と十月事件には大川周明が関与していた

(※2) このほか北一輝、西田税も反乱軍首魁として死刑に処され、関係した多数の将校らが処罰された。

真崎甚三郎も起訴されたが、無罪となった

【参考・引用文献】

○秦郁彦著「軍ファシズム運動史」(原書房)

○松沢哲成、鈴木正節著「二・二六と青年将校」(三一書房)

○磯部浅一著「二・二六青年将校の獄中記」(月刊誌「文芸春秋」昭和30年3月号収録)

○太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著「二・二六事件」(河出書房新社)

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