第125回 後継首相 大命降下を拝辞した近衛文麿

昭和天皇の87年

大命降下を拝辞した近衛文麿 陸軍の横やりに組閣人事は難航した

第125回 後継首相

静岡県興津町(現静岡市)に居を構える最後の元老、西園寺公望が上京したのは昭和11年3月2日、二・二六事件の鎮圧から2日後である。

 昭和天皇の下問を受け、事件により総辞職した岡田啓介内閣の後継首相を選ぶためだ。

西園寺は同月6日まで宮内省内に寝泊まりし、人選にあたった。

 事件の後始末を担う後継首相に求められるのは、一にも二にも粛軍である。

昭和天皇の意向を知る皇族も、元老私設秘書の原田熊雄にこう話していた。

 秩父宮雍仁(やすひと)親王「どうしてもこの際粛軍をやらなければならないけれども、それにはやはり実力のある相当な人物を後継内閣の首班にしなければ駄目だらう。

(中略)総理は軍人でない方が或(あるい)はよくはないか」

 閑院宮載仁(ことひと)親王「今まであまりに臭いものに蓋(ふた)をしろ主義で来たのが今日爆発した原因をなして来てゐるのであつて、今度はどうしても思ひきつて軍を綺麗(きれい)にしなければならない」

 だが、軍部を押さえられる「相当な人物」となると簡単には見つからない。

一部に枢密院副議長の平沼騏一郎を推す声もあったが、西園寺はそれを拒み、人選は難航した。

× × ×

 西園寺が白羽の矢を立てたのは、有力華族の近衛文麿である。

当時44歳ながら貴族院議長を務め、国民にも軍部にも受けがいい。

 3月4日、西園寺は近衛を呼んで言った。

 「貴下を奉請しようと思うが、受けろ」

 「自分は(健康が悪化していて)とても身体が3カ月と持ちません」

 「身体の問題じゃない。こういう際だから多少のことは思い切って受けるのが当然だ」

 近衛は困惑したが、西園寺は参内し、半ば強引に近衛を推薦する。

同日午後4時、昭和天皇は近衛を呼び、「ぜひとも」の言葉をつけて組閣を命じた。

 だが、近衛は受けなかった。

 「時局重大の時、文麿の健康はとても大任を果たす自信がございません」(※1)

× × ×

 頼みの近衛にも断られ、西園寺は頭を抱えた。

このとき、助け舟を出したのは宮中側近である。

同日、宮相の湯浅倉平が内大臣府秘書官長の木戸幸一に、こうささやいた。

 「外相の広田はどうだろう」

 広田弘毅-

福岡県の石大工の家に生まれ、貧しいながらも東京帝大へ進み、外交官となって出世街道をひた走った努力家だ。

昭和8年から外相を務め、満州事変で悪化した対中外交の融和政策を推進。

その過程で何度も軍部と渡り合った実績もある。

 木戸から話を聞いた西園寺は、「それも一案だなア」とうなずいた(※2)。

 翌日の午後、《(昭和天皇は)御学問所において公爵西園寺公望に謁を賜い、後継内閣の首班として外務大臣広田弘毅を推挙する旨の奏上を受けられる。

(中略)お召しにより参内の広田弘毅に謁を賜い、組閣を命じられる》(昭和天皇実録23巻44頁)

× × ×

 のちに文官として唯一“A級戦犯”となり、絞首台の露と消える広田の悲劇は、ここに始まったといえるかもしれない。

外交官としては有能でも、軍を抑えて国をまとめる力量は、広田にはなかった。

 それでも広田は、果敢に動いた。

ただちに閣僚人事に着手し、外相に吉田茂、海相に永野修身、陸相に寺内寿一を内定したほか、東京朝日新聞副社長の下村宏を拓相(拓務大臣)に登用、政友会と民政党からも2人ずつ入閣を求め、6日中に組閣できる見通しをつけた。

 だが、早くも陸軍から猛烈な横やりが入る。

「吉田は牧野(伸顕元内大臣)の女婿だからいかん」「朝日新聞は自由主義的だから下村もいかん」と閣僚の顔触れを批判し、「組閣方針に同調しがたい」と、寺内が入閣辞退を申し入れてきたのだ。

 昭和天皇は、陸軍の横やりを憂慮した。

 7日《武官長をお召しになり、陸軍の真意が広田内閣の絶対排斥にあるか否かを取り調べるよう御指示になる。

(中略)翌八日朝、武官長に対し、新聞が報じるところの軍部要求の強硬な様子につき御下問になる》(23巻46頁)

 昭和天皇は、一刻も早い組閣を望んでいたのである。

× × ×

 とはいえ陸軍がへそを曲げたままではやりにくい。

広田は閣僚人事を練り直し、吉田や下村らを名簿から外した。

しかし8日午後、陸軍から「政友会と民政党からの入閣者を1人ずつにしてほしい」と言われ、天を仰いだ。

 陸軍の操り人形になろうとは思わない。

9日未明、広田の側近が寺内に告げた。

 「組閣遂(つい)に成らず、軍部、組閣を阻止するということを明日の新聞に発表致しますが、どうか御承知願います」

 強烈なしっぺ返しに、寺内は慌てた。

昭和天皇が激怒する光景が、目に浮かんだことだろう。

広田のもとに特使を送って再協議し、しぶしぶ組閣を了承する。

午前2時すぎだったという。

 9日夜、広田は参内し、昭和天皇に閣僚名簿を提出した。

 だが、広田はやはり、器ではなかったようだ。

内閣発足後も陸軍に押され、「パンドラの箱」を開けてしまうのである--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 近衛文麿が後継首相の大命を拝辞した表向きの理由は「健康の悪化(胸部の疾患)」だが、侍従武官長の本庄繁は日記に、「近衛公爵は其後、昵懇(じっこん)なる某大将に対し、自分の首相を拝辞したるは、健康の事、固より大なる理由なるも、

一には元老が案外時局を認識しあらざること、又一には、陸海軍両相の地位が、現下最も重要なるに拘(かかわ)らず、現在其人を見出し得ざることが、重大原因なりと語れり…」と書き残している。

一方、昭和天皇は近衛の言葉を信じ、本庄に「近衛の首相拝辞は色々の噂ある由なるも、全く胸部疾患の為にして、実は内大臣たらしめんとせしも、之をも病気の故を以て固辞したる位なり」と語ったという(日記の原文はカタカナ)

(※2) 最初に広田の起用を思いついたのは、一木喜徳郎枢密院議長だったとされる

【参考・引用文献】

○原田熊雄述「西園寺公と政局」(岩波書店)5巻

○本庄繁記「本庄日記〈普及版〉」(原書房)

○広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」(葦書房)

○宮内庁編「昭和天皇実録」23巻

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