第126回 失政 禍根を残したナチスドイツとの提携

昭和天皇の87年

禍根を残したナチスドイツとの提携 破滅の戦争への扉が開かれた

第126回 失政

陸軍の横やりにより、難産の末に発足した広田弘毅内閣だが、その使命が二・二六事件後の「粛軍」にあることに変わりはない。

発足から1カ月半後の昭和11年4月下旬、陸軍は「粛軍」のためとして、軍部大臣現役武官制の復活を提案した。

「軍人の思想が混迷する中、命令権をもつ現役将官でなければ陸相は務まらない」-というのが、復活の理由である。

 陸海両相は現役将官に限るとした軍部大臣現役武官制は明治33年、ときの山県有朋内閣が軍部の政治的発言権を確保するために導入した制度だ。

軍部の支持がなければ陸相、海相の候補者が得られず、内閣を組織できなくなる。

その弊害は大きく、大正2年に山本権兵衛内閣がやっとの思いで廃止した。

それを復活すれば、軍部の政治関与はますます強まるだろう。

だが、広田は深く考えなかったようだ。

陸軍から「予備役となった皇道派の将官が陸相になれば再び重大事件が起きるかもしれない」と脅かされ、あっさり了承してしまう。

閣議でもほとんど議論にならず、昭和11年5月18日、陸海両省の官制が改正され、現役武官制が復活した。

以後、軍部の政治関与に歯止めが利かなくなる(※1)。

× × ×

もう一つ、広田内閣が取り組んだ政策で、禍根を残したものがある。

日独防共協定だ。

ソ連の脅威に対抗するため、陸軍主導でドイツとの秘密交渉が始まったのは前年の春頃とされる。

外務省欧米局長の東郷茂徳が「ナチズムの宣伝の具に利用されるだけだ」と反対し、いったんは棚上げされたものの、中国大使の有田八郎が外相に就任したことで風向きが変わった。

反ソ傾向の強い有田は日独提携の必要性を認め、反対していた東郷も、

(1)ソ連を過度に刺激して戦争を誘発しない(2)列国に不要な不安を抱かせない(3)日独協議と並行して日英協議も行う-などの条件をつけて本格交渉に乗り出していく。

広田は当初、外相に有田ではなく、親英米派の吉田茂を起用する方針だったことはすでに書いた。

吉田であれば、ナチスドイツとの提携など歯牙にもかけなかっただろう(※2)。

昭和11年11月25日午前、昭和天皇は枢密院会議に臨席し、「日独協定締結ノ件」が全会一致で可決されるのを、無言で見守った。

どんな気持ちだったか。

昭和天皇実録は《「日独協定締結ノ件」とは、いわゆる日独防共協定の締結の件にて、この日午後八時五分、ベルリンにおいて、大日本帝国特命全権大使武者小路公共及びドイツ国特命全権大使リッベントロップにより、「共産インターナショナルに対する協定」

並びに「共産インターナショナルに対する協定の附属議定書」の調印が行われ、二十八日、官報にて条約を以て公布される》と、淡々と経緯を示すのみである(23巻194~195頁)。

なお、防共協定は共産主義的破壊活動に対する相互通報・防衛協議などを定めたもので、ソ連からの「挑発によらざる攻撃」を受けた場合の秘密協定も結ばれたが、列国に配慮し、半ば骨抜きされた内容だった。

それでも列国の反発は予想以上に大きく、成立寸前だった日ソ漁業条約改定の調印をソ連が拒否したほか、日英協議にも失敗してしまう。

日独防共協定はやがて、日独伊三国同盟へとつながり、日本を破滅の戦争へと導いていくのである--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 軍部はすでに内閣を瓦解(がかい)させるほどの政治権力を有しており、軍部大臣現役武官制の復活で政治権力が増大したわけではないとする説もある

(※2) 日独防共協定には保守派の多くも否定的で、元老の西園寺公望も「ほとんど十が十までドイツに利用されて、日本は寧(むし)ろ非常な損をしたやうに思はれる」と語っていた

【参考・引用文献】

○筒井清忠著「昭和十年代の陸軍と政治」(岩波書店)

○里賢一著「東郷茂徳の日英関係改善構想-日独防共協定を巡る内訌を中心に」(国士舘大学政経学会編「政経論集」14号収録)

○広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」(葦書房)

○宮内庁編「昭和天皇実録」23巻

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