第130回 操り人形 悲劇の貴公子かポピュリストかー近衛文麿いよいよ登場

昭和天皇の87年

悲劇の貴公子かポピュリストか- 近衛文麿いよいよ登場

第130回 操り人形

「私が出て来たので、陸軍がなぜ騒いだかといふと、『あいつが出たら、我々がわがままが出来ぬ』といふことに尽きるだらう」

 昭和12年1月25日に組閣の大命を受け、陸軍の反対で拝辞のやむなきに至った予備役陸軍大将、

宇垣一成が手記につづった恨み節である。

 組閣を潰した首謀者の石原莞爾が、宇垣では「わがままが出来ぬ」と考えていたのは事実だろう

参謀本部作戦部長代理兼戦争指導課長だった石原は当時、スターリンの5カ年計画によって急速な発展を遂げたソ連に脅威を抱き、満州と連携した国防体制の確立を急いでいた。

それには莫大な予算が必要だが、我の強い宇垣を説得するのは容易ではないと危惧したのだ。

 では、誰なら「わがままが出来る」のか-。

石原が担ごうとしたのは、元陸相の林銑十郎である。

 かつて石原が関東軍参謀として満州事変を主導したとき、林は朝鮮軍司令官の職にあり、石原らの求めに応じて朝鮮軍を出動させた“前科”がある。

加えて林は陸相時代、何事も部下の言いなりで、閣議で決定したことも部下から反対されるとすぐに取り消すほどだった。

「操り人形」には、うってつけといえよう。

 1月29日、石原の裏工作が功を奏し、林に大命が降下する(※1)。

しかし、操り人形に首相が務まるはずはなかった。

× × ×

 果たして、林は初っぱなからつまずいた。

操り糸がこんがらがったのだ。

陸相人事で石原が満州事変の同志、板垣征四郎を推したところ、かねて石原のやり方に不満を持っていた

陸軍次官の梅津美治郎が猛烈に反対。

板挟みとなった林は板垣陸相案を引っ込め、組閣本部から石原派を追い出してしまう(※2)。

 それでも何とか組閣した林だが、今度は議会対策でずっこけた。

3月に予算案を通過させると抜き打ち的に解散しため、「食い逃げ解散」との批判が噴出。

4月30日の総選挙では、林内閣との対決姿勢を鮮明にした政友会、民政党があわせて全議席の75%を占めるなど圧勝した。

 両党議員は5月28日、内閣総辞職を求める共同声明を発表する。

こうなってはもう、林に打つ手はない。

同月31日、林は閣僚の辞表をまとめて昭和天皇に提出した。

在任わずか123日。

糸のもつれた操り人形の、何ともあっけない幕切れである。

林銑十郎ではなく「何もせんじゅうろう」だと、さんざんに皮肉られた。

 ただし、林内閣の存在がまるで無意味だったかといえば、そうでもない。

政財界の間に、次こそ“真打(しんうち)登場”だという機運を高めたからだ。

国民にも軍部にも人気の高い政界の真打、近衛文麿のことである。

× × ×

 二・二六事件以降、時局収拾の切り札として、貴族院議長の近衛を首相に推す声は日に日に強まっていた。

近衛にその気はなく、健康不安を理由に断り続けたが、もう逃げられない。

林内閣の総辞職を受け、元老の西園寺公望が私設秘書の原田熊雄に言った。

 「甚だ気の毒であるけれども、結局どうしても近衛よりほかに適任者がないと思ふ」

 近衛、このとき45歳。

元老はじめ各界各層からのラブコールである。

 昭和10年代の政治家で、近衛ほど後世の評価が分かれる人物は少ない。

「悲劇の貴公子」とも、「無責任なポピュリスト」とも評されている。

 才子であることは疑いない。

五摂家(※3)筆頭の名門、近衛公爵家に生まれ、旧制一高から東京帝大哲学科に進んだ後、京都帝大法科に転学、哲学者の西田幾多郎や経済学者の河上肇らに学んだ。

25歳で貴族院議員となり、2年後に雑誌論文「英米本位の平和主義を排す」を発表すると、以後、たびたび新聞や雑誌に論文を寄稿し、注目を集めるようになる。

 ただ、近衛には八方美人的な側面があった。

大正デモクラシー華やかりし頃は、議会政治と責任内閣の発展を力説して統帥権の独立を問題視していたが、満州事変が起きると陸軍中枢に接近、軍部の政治進出を許容するような言動が目立ちはじめる。

近衛がのちにポピュリストと批判されるのも、こうした迎合性がうかがえるからだろう。

× × ×

 とはいえ、政府と議会、そして軍部が対立を深める中、「近衛ならば」の期待は大きかった。

 6月4日、近衛内閣が発足する。

外相に元首相の広田弘毅を起用し、陸相の杉山元と海相の米内光政を留任させ、政党からも2人を入閣させた堂々の布陣だ。

昭和天皇は、深く安堵したことだろう。

 国民もこぞって歓迎した。

東京朝日新聞は「白面の青年宰相、わが内閣史上画時代的」と書き、杉山は「陸軍は挙げて近衛公を支持する」と言い、中国からも祝報が寄せられた。

 だが、この内閣の下で日中両軍が衝突し、日本は泥沼の戦争へとはまり込んでいくのである--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週からは「日中戦争」編を連載します)

(※1) 後継首相を選考する元老の西園寺公望は、第1候補に枢密院議長の平沼騏一郎を、第2候補に林銑十郎を推したが、平沼が固辞したため林と決まった。

昭和天皇は組閣を命じる際、林に(1)憲法を遵守すること(2)内治・外交に無理をしないこと(3)明治天皇より下された軍人の政治不干与(不関与)の趣旨を徹底すべきこと-を求めた

(※2) 元老私設秘書の原田熊雄は林内閣発足の経緯について、「この二三年このかた石原莞爾大佐を中心に日満経済調査会の宮崎某(石原の民間ブレーンの宮崎正義)等を使ひ、十河氏(同じく石原のブレーンで戦後に国鉄総裁を務める十河信二)なんかもこれと一緒になつて研究して、大体五箇年計画といふことで、

国防殊に空軍の充実、しかもいはゆる日満を通じての国防についての非常に厖大な計画の一つの試案が出来てをつた。

(中略)その全体の案を鵜呑みにして引受けたのが林大将であつた。

そこでまあ石原なんかは林が出れば思ふやうになると思つて、しきりに林大将を自分の思ふやうに動かすつもりで、『林大将(を首相に)』といふことを言つてをつたんだらうが、いよいよになつてみると、(中略)板垣(征四郎)は(陸相に)入れない、末次(信正)も(海相に)入れない、

十河は結局(組閣本部を)やめたといふことになつて、林大将に対して非常に不満をもつてをつたさうである」と述懐している

(※3) 摂政・関白を独占した公家の頂点に立つ家柄で、近衛・九条・鷹司・一条・二条-の5家

【参考・引用文献】

○粟屋憲太郎著「昭和の政党」(岩波書店)

○伊藤之雄著「昭和天皇伝」(文芸春秋)

○原田熊雄述「西園寺公と政局」(岩波書店)5巻

○江口圭一著「第三三代 林内閣」(林茂ほか編「日本内閣史録3」収録)

○矢部貞治編著「近衛文麿〈上〉」(弘文堂)

○古川隆久著「近衛文麿像の再検討」(日本大学文理学部人文科学研究所発行「研究紀要」88号収録)

○宮内庁編「昭和天皇実録」24巻

○昭和12年6月2日の東京朝日新聞

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