第131回 暗夜の発砲 盧溝橋事件の真相

昭和天皇の87年

盧溝橋事件の真相 日中戦争はこうして始まった

第131回 暗夜の発砲

近衛文麿内閣の発足から1カ月余り、それは、錯誤と偶然が重なって発火した。

1937(昭和12)年7月7日、中国・北京の南西約15キロ、永定河にかかる全長267メートルの盧溝橋が、事件の舞台である。

 この橋の北側の荒れ地で、日本の支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊が夜間演習を行っていた。

月はなく、星明かりで橋の輪郭がかすかに浮かぶ暗夜である。

午後10時半に前半の演習が終わり、中隊長の清水節郎が「集合」の伝令を仮設敵の陣地に送ったとき、その方角から軽機関銃の射撃音が聞こえた。

 訓練用の空砲だ。清水は、仮設敵が伝令を誤射したのだろうと思ったが、その直後、別の方角から数発の銃声がした。

 今度は実弾だ。

危険を感じた清水が部下に集合ラッパを吹かせたところ、再び十数発の銃声が響き、頭上で弾丸がヒュンヒュンと風を切った。

 部隊を集めて点呼をとると、初年兵が1人いない。

実弾が飛んできたのは、中国軍の塹壕(ざんごう)がある永定河の堤防付近からで、中国軍に銃撃されたか、捕虜にされた恐れもある。

清水は伝令を駐屯地に走らせ、大隊長の一木清直に急報した。

 一木は勇猛果敢で知られる部隊長だ。

大隊主力に出動を命じ、自ら現場に急行した。

行方不明の初年兵は道に迷っていただけで20分後に帰隊したが、その報告を受けても一木は警戒態勢を緩めなかった(※1)。

 一木から連絡を受けたのは、第1連隊長の牟田口廉也である。

のちに無謀なインパール作戦を強行したことで知られる牟田口は、勇猛というより蛮勇に近い。

当初は交渉により不法発砲の責任を追及するつもりだったが、8日午前3時25分、再び中国側から発砲を受けたとの急報を受け、一木に攻撃を許可した。

 午前5時、大隊命令が下り、第3大隊主力が中国軍陣地に向かって前進を開始する。

だが、交渉役として現場に到着した連隊付中佐の森田徹が、直前で攻撃を制止した。

やむなく一木は部隊に食事休憩を与え、改めて攻撃の了解を得ようとした。

 そのときだ。

第3大隊の動きに刺激されたのか中国軍が一斉射撃し、大隊側も応戦、なし崩し的に戦闘がはじまった。

時に午前5時30分、盧溝橋事件である。

× × ×

 盧溝橋で日中両軍が衝突したとの報告を受けた首相、近衛文麿の第一声は、「まさか、陸軍の計画的行動ではなかろうな」だったという。

満州事変の二の舞を恐れたのだろう。

 だが、事件はまったく偶発的だった。

発端となった7日の実弾発砲について日中双方の見解は異なるが、日本軍の夜間演習中、訓練用の空砲に驚いた中国軍の兵士が実弾数発を撃ち、集合ラッパにまた驚いて十数発を撃ったというのが真相ではないか(※2)。

 両軍部隊が過剰反応する素地はあった。

発砲前日の6日、中国第29軍第110旅長の何基●(=さんずいに豊)が現場の将兵に、「もし日本軍が挑発したならば、必ず断固として反撃せよ」と命じていたからだ。

何基●(=さんずいに豊)は、日本と蒋介石政権の共倒れを画策する中国共産党の影響を受けていたとされる(※3)。

 一方、日本側で攻撃許可を出した連隊長の牟田口廉也も、前年に両軍兵士がトラブルになったとき、妥協的な措置をとったため「皇軍の威信が傷ついた」と悔やんでおり、今度は断固とした措置をとると決心していた。

× × ×

 もっとも、より上級の支那駐屯軍司令部は不拡大方針で動いた。

中国側との交渉に奔走したのは北平(北京)特務機関長、松井太久郎だ。

両軍部隊の戦闘が断続的に続く中、松井は11日夜、停戦協定の調印にこぎ着ける。

松井は言った。

 「刀を抜いても血を見ずして鞘に収めることが出来れば上乗、動員しても戦争せずにすめば結構だ。

此の協定を締結した為に害を将来に残すことは絶対にない」

 この停戦協定が守られていれば、歴史は変わったかもしれない。

しかし、現地の足を東京が引っ張った。

 内閣書記官長の風見章のもとに、陸相の杉山元から電話があったのは協定調印の前日、10日午後9時ごろである。

 「現地の兵力が、あまりにも手薄である。

これでは、その後の経過からみて、安心できない。

従って、ある程度の派兵の必要がある」

 支那駐屯軍の兵力は約5800人、対する中国第29軍は約9万5000人。

戦闘が本格化すれば駐屯軍はもちろん在住邦人の生命が危ない。

杉山は、「(11日の閣議で)至急派兵を決定したい」と訴えた。

 風見は驚いた。

杉山は9日の閣議でも同じ理由で動員派兵を提案し、海相の米内光政らに反対されて撤回したばかりである。

かわりに不拡大方針の堅持を確認し、それは陸軍も認めていたはずだ。

 だが、このとき陸軍内部では、深刻な路線対立が起きていたのである--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 攻撃を主導した第3大隊長の一木は先の大戦時、ガダルカナル島の戦いで壮絶な戦死を遂げる

(※2) 盧溝橋事件の経緯については諸説あり、中国側では「日本軍が主張する不法発砲の地点に中国軍部隊は配備しておらず、すべては日本軍が盧溝橋地区を武力占領するため、不法発砲や兵士不明を口実に攻撃を仕掛けてきたもの」などと主張している

(※3) 何基●(=さんずいに豊)は1939年1月、国民党軍の軍籍のまま中国共産党に入党し、秘密党員として地下活動に関わった

【参考・引用文献】

○安井三吉著「盧溝橋事件」(研文出版)

○秦郁彦著「盧溝橋事件の再検討-七月七日夜の現場」〈I〉~〈II〉(日本政治経済史学研究所「政治経済史学」平成6年3~4月号収録)

○秦郁彦著「盧溝橋事件から日中戦争へ」〈I〉~〈II〉(千葉大学法学会「法学論集」9巻1~2号収録)

○坂本夏男著「盧溝橋事件勃発の際における牟田口廉也連隊長の戦闘開始の決意と命令」(藝林会発行「藝林」42巻1号収録)

○風見章著「近衛内閣」(日本出版協同)

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