第135回 檄文打電 敏速に動いた中国共産党

昭和天皇の87年

敏速に動いた中国共産党 毛沢東は対日戦争を呼びかけた

第135回 檄文打電

盧溝橋事件をめぐり、日本の政府と軍部が混乱の極みにあったことはすでに書いた。

一方、中国側はどうだったか。意外にも、中国共産党は事件勃発後、敏速かつ計画的に動いたようだ。

 盧溝橋で日中両軍が衝突した翌日の1937(昭和12)年7月8日、毛沢東は蒋介石に打電した

 「蒋委員長の高覧を仰ぐ。日本侵略者は盧溝橋を進攻し、その武力による華北奪取という既定の段取りを実行に移した。

(中略)願わくば全国総動員を実行して、北平(北京)・天津を防衛し、華北を防衛して失地を回復されんことを。

紅軍将兵全員が委員長の指導のもとで、国家のために生命を捧げ、敵に対抗して、国土と国家を防衛する目的を達成せんことを希望している」

 即時開戦を呼びかける内容だ。

中国共産党は同日、中国全土の新聞社、各団体、各軍隊に向けても打電した。

 「全国の同胞諸君! 北平・天津危うし、華北危うし、中華民族危うし、全国民族が抗戦を実行してのみ、われわれの活路がある! 

われわれに攻撃してくる日本軍に対しただちに断固たる反撃を加えるよう要求するとともに、

新たな大事変に即応する準備をただちにすすめるよう要求する。

(中略)全国の同胞・政府・軍隊は団結して民族統一戦線の堅固な長城を築きあげ日本侵略者の侵略に抵抗しよう!

 国共(国民党と共産党)両党は親密に合作し、日本侵略者の新たな攻撃に抵抗し、日本侵略者を中国から追い出そう!」

 繰り返すが、これら激烈な打電の日付は7月8日である。

盧溝橋で最初の発砲があったのは7月7日午後10時半ごろ、日中両軍が戦闘に突入したのは翌8日午前5時ごろ、そのわずか数時間~十数時間後に中国全土へ向けて抗日戦線結成を呼びかけたのだから、

まるで盧溝橋事件が起きるのを予期していたかのような手回しのよさだ(※1)。

× × ×

 敏速に動いた毛沢東の狙いは、蒋介石との連携(国共合作)による中国共産党の勢力温存である。

1930年以降の国共内戦で壊滅寸前に追い込まれていた共産党が、36年の西安事件(※2)で息を吹き返したことはすでに書いた。

しかしその後、国共合作に向けた交渉は進まず、蒋介石がいつ変心して共産党を攻撃するかも分からない情勢だった。

 そんな時に発生した盧溝橋事件は、毛沢東と共産党にとって、まさしく僥倖(ぎょうこう)だったといえるだろう。

 共産党は、上海で工作活動をしていた周恩来を蒋介石のもとに送り、国共合作による徹底抗戦を強く求めた。

同時に、停戦合意の動きを巧妙に妨害する。

日中両軍が対峙(たいじ)している現場で毎晩のように謎の銃声が響き、これを合図に戦闘が起きるため日中双方で調べたところ、共産党の指令で学生らが爆竹を鳴らしていたケースもあった(※3)。

 蒋介石は当初、共産党との連携に乗り気でなかったが、戦況が不利になるにつれ、交渉に前向きとなる。

すると共産党は態度を変え、人事問題などで要求をエスカレートさせた。

毛沢東は8月1日、周恩来にこう打電している。

 「今の蒋は私たちよりも焦っている」

 盧溝橋事件で蒋介石は、共産党の術中に落ちたといえなくもない。

× × ×

 その頃、日本では昭和天皇が、何とか近衛文麿内閣の不拡大方針を支えようとしていた。

8月5日には近衛に《迅速な和平交渉の開始を御希望になり、戦況有利な我が国より提議すべき旨を仰せ》になったと、昭和天皇実録に記されている(24巻105頁)。

 だが、通州の虐殺事件に激高した国民の戦争熱を抑えるのは容易ではない、

政府は15日、「支那軍ノ暴戻(ぼうれい)ヲ膺懲(ようちょう)シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為 

今ヤ断乎タル措置ヲトルノ已(や)ムナキニ至レリ」という、いわゆる「暴支膺懲声明」を発表。

昭和天皇も《このようになっては外交による収拾は難しいとの御言葉》を侍従武官に漏らすようになった(24巻108頁)。

 日本が振り上げた拳を下ろせないように、中国も戦況不利のまま停戦するわけにはいかない。

共産党にあおられた蒋介石は、自らに有利な場所で日本軍に一矢報いようと決意する。

 蒋介石が決戦の地に選んだのは、上海だった--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 中国共産党指導部は盧溝橋事件の直後、蒋介石と新聞社などに向けた電報のほか、北京を管轄する第29軍軍長の宋哲元らに徹底抗戦を呼びかける電報と、

劉少奇が書記を務める共産党北方局に抗戦準備を指示する電報の計4通を発した。

いずれも記録上は7月8日付だが、実際に打電した日については一部に議論もある

(※2) 中国の古都・西安(現陝西省西安市)郊外で1936(昭和11)年12月、

中国共産党への総攻撃の督励に訪れた蒋介石を、共産党に内通していた張学良らが監禁した事件。

蒋は約2週間後に解放されるが、その際、何らかの密約が結ばれたとされ、

国民党は事件後、共産党への軍事行動を事実上放棄した

(※3) 中国共産党関係者が両軍陣地に銃弾を撃ち込んだとする説もある

【参考・引用文献】

○日本国際問題研究所中国部会編「中国共産党史資料集」8巻(勁草書房)

○岡野篤夫著「盧溝橋事件」(旺史社)

○上村伸一著「日本外交史20巻 日華事変〈下〉」(鹿島研究所出版会)

○鄒燦著「盧溝橋事件とその後の中国共産党」(中国現代史研究会「現代中国研究」32号収録)

○防衛研修所戦史室著「戦史叢書 支那事変陸軍作戦〈1〉」(朝雲新聞社)

○宮内庁編「昭和天皇実録」24巻

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