第136回 上海事変 在留邦人危うし

昭和天皇の87年

在留邦人危うし 中国軍精鋭が日本人街に襲いかかった 

第136回 上海事変

「今こそ対日戦争に踏み切るべきだ」

 蒋介石が抱えるドイツ軍事顧問団団長、ファルケンハウゼンがこう進言したのは、盧溝橋事件が起きる1年以上も前、1936(昭和11)年の春頃といわれる。

 同じ頃、ナチス・ドイツは日本と防共協定を結んだが、ドイツ国防軍は日露戦争でロシアと組んで以来、伝統的に日本を仮想敵国とみなしていた。

第一次世界大戦で山東省の租借地を奪われてからはその傾向が強く、国民党政府に顧問団を送って軍事力の強化に努めていたのだ。

 蒋介石は、ファルケンハウゼンの進言を直ちに入れることはなかったが、将来の決戦に備え、

上海近郊の非武装地帯にトーチカ群など堅固な陣地を構築した。

いざという時、ここを拠点に上海駐留の日本海軍を撃滅し、救援に駆けつける日本陸軍も撃破するという、ドイツ仕込みの作戦である。

盧溝橋事件後、北京周辺での戦況が不利になった蒋介石は、いよいよこの作戦を実行する時だと判断したようだ。

× × ×

 直接のきっかけは盧溝橋事件の1カ月後、37年8月9日に起きた大山事件である。

その日、海軍特別陸戦隊第1中隊長の大山勇夫と1等水兵の斎藤與蔵が車で上海の陸戦隊本部に移動中、中国保安隊に銃撃され、2人とも死亡した。

大山の遺体には無数の機関銃弾があったほか、銃剣などで陵辱されたあとがあり、頭部は二つに割れ、顔面の半分が潰されていたという。

 中国側は、最初に大山が保安隊員を射殺したので銃撃したと偽り、日本側がさらなる紛争防止のため保安隊の撤退を求めても、かえって保安隊を進出させ、

12日以降は完全武装の正規兵を続々と派遣。

上海は、たちまち一触即発の状態となった。

 上海地域の在留邦人を保護するのは、海軍第3艦隊の担当だ。

それより前、日本政府は揚子江沿岸の邦人の引き揚げを決定、上海在住の婦女子2万人を帰国させたが、まだ1万人が租界に残っている。

 中国軍が乱入すれば、通州の残虐事件が再び起きることだろう。

 12日夜、邦人保護の大海令(※1)が発せられた。

 「第三艦隊司令長官ハ現任務ノ外 上海ヲ確保シ 同方面ニ於ケル帝国臣民ヲ保護スベシ」

 このとき、上海周辺に集結した中国軍は第87、88、36師で、背後には第15、118師などがひかえ、総兵力は約15万人に達した(※2)。

 対する海軍陸戦隊は5千人弱。

初年兵にいたるまで、全員が死を覚悟したに違いない。

× × ×

 戦端を開いたのは中国軍だ。

時に13日午後4時54分。日本人街のある虹口地区の北、八字橋付近に埋設された地雷が爆発したのを合図に、中国軍第88師の部隊約2000人が攻め込んできた。

 海軍上海特別陸戦隊司令官、大川内伝七の命令が飛ぶ。

 「全軍戦闘配置につけ」

 敵の第88師はドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製の武器を手にした精鋭中の精鋭だ。

「一挙ニ海軍陸戦隊ヲ潰滅(かいめつ)セントスル作戦指導振リハ洵(まこと)ニ猛烈執拗ニシテ我ヲシテ応接ニ遑(いとま)ナカラシメ、我ガ租界第一線ノ如キモ再三ノ危殆(きたい)ニ陥リタリ」と、軍令部編集の「大東亜戦争海軍戦史」が書く。

この日の八字橋付近の激戦は5時間以上にわたり、陸戦隊は午後11時、ようやく敵を撃退した。

 翌14日午前3時、新たな中国軍が北部の陸戦隊陣地を襲う。

左翼の小隊が包囲され、陣地を突破されそうになったが、駆けつけた増援部隊が奮戦、死力を尽して守り通した。

 北部地区を突破できない中国軍は、攻撃の重点を共同租界の東部に移す。

とくに17日午前8時からの攻撃は熾烈を極め、一部が租界内に侵入、東部地区の陸戦隊は窮地に陥った。

 激戦16時間。戦況不利とみた中隊長の菊田三郎が敵部隊の真っ只中に斬り込む。

「中隊長を死なすな」と下士官兵が続く。

壮絶な白兵戦だ。手榴弾が飛び交い、彼我の肉片が散った。

何とか中国軍を押し戻したものの、菊田は戦死した。

× × ×

 東京では、戦端が開かれた13日に陸軍部隊の派兵を急遽(きゅうきょ)決定したが、どんなに急いでも上海に上陸するのは23日以降だ。

現地で最高指揮権をもつ第三艦隊司令長官の長谷川清は、とてもそこまで持ちこたえられないと、軍令部に打電した。

 「本十六日ノ激戦ニ依リ陸戦隊ハ可成リノ損害ヲ蒙リタリ。

士気ハ依然旺盛ニシテ死力ヲ尽シテ戦線ノ維持ニ努メアルモ敵ノ兵力集中情況ニ鑑ミ、

毎日此ノ程度ノ激戦ヲ予期セラルルニ付テハ疲労ト兵力ノ損耗トニ依リ後六日間ノ維持ハ極メテ困難ナリ…」

× × ×

 陸戦隊を救ったのは、鹿屋海軍航空隊と木更津海軍航空隊だ。

鹿屋空は台湾の台北基地から、木更津空は長崎の大村基地から、当時は世界でも異例の渡洋爆撃を敢行。

悪天候などで多くの犠牲を出しながらも南京などの飛行場爆撃に成功し、制空権を握った。

 在留邦人が不眠不休で陸戦隊を支援したことも忘れてはなるまい。

男は土嚢(どのう)づくりを、最後まで残った婦女800人は炊き出しなどに従事した。

 23日未明、待ちに待った陸軍の救援部隊が上海の外港、呉淞(ウースン)に上陸した。

陸戦隊は上海を守りきったのだ。

 しかしこの後、陸軍部隊が大苦戦を強いられる--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 海軍軍令部総長が天皇の裁可を受け、指揮官に対して発する命令

(※2) 中国軍の兵力には諸説あり、防衛研修所の戦史叢書では、12日夜の段階で海軍陸戦隊に直接対峙したのは第87、88師と武装保安隊の計約3万人としている

【参考・引用文献】

○阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」(小学館)

○田嶋信雄著「ナチズム極東戦略」(講談社)

○中村粲著「大東亜戦争への道」(展転社)

○防衛研修所戦史室著「戦史叢書 中国方面海軍作戦〈1〉」(朝雲新聞社)

○海軍歴史保存会発行「日本海軍史」6巻

○軍令部編「大東亜戦争海軍戦史 本紀巻1」(防衛省戦史研究センター所蔵)

○昭和12年8月14~25日の東京朝日新聞、東京日日新聞、読売新聞

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