第137回 南京への道(1) 大苦戦の日本陸軍

昭和天皇の87年

大苦戦の日本陸軍 上海のクリークが鮮血で染まった

第137回 南京への道(1)

1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件を発火点とする日中戦争は、

8月の第2次上海事変で炎上した(※1)。

両軍が激突した2日後の8月15日、蒋介石は中国全土に総動員令を発令。

自ら陸海空軍の総司令に就任し、戦時体制を整えた。

同じ日、近衛文麿内閣はいわゆる「暴支膺懲(ようちょう)声明」を発表

宣戦布告こそしなかったものの、「今ヤ断乎タル措置ヲトルノ已(や)ムナキニ至レリ」と決意を示した(※2)。

 それからちょうど8年後、昭和20年8月15日まで、泥沼の戦争が続くのである。

 昭和天皇は憂えた。

8月18日、軍令部総長に《事変の支那全土への拡大を危惧され、事態の早期収拾のため、北支又は上海のいずれか一方に作戦の主力を注いで打撃を与えた上、

(中略)和平条件を提出することの可否について御下問になる。

また、政府にも事変の早期収拾の要を伝達すべき旨を御下命》になったと、昭和天皇実録に記されている(24巻114頁)。

 香淳皇后も心を痛めた。

 8月17日《予(かね)て皇后は、今回の北支事変により、軍人・軍属にして傷痍(しょうい)を受けた者、失眼又は四肢切断の者に対し、繃帯(ほうたい)・義眼・義肢を下賜される旨の御沙汰を下され、炎暑中連日繃帯巻きの作業に勤(いそ)しまれる》(24巻113頁)

 宮中の願いは、戦争回避にあったのだ。

× × ×

 海軍陸戦隊の危機を受け、8月14日の緊急閣議で動員が決まった上海派遣軍の軍司令官を務めるのは、元軍事参議官の松井石根だ。

すでに現役を退いていたが、陸軍きっての中国通である。

出征にあたり、17日に参内した松井は昭和天皇に誓った。

 「密接にわが海軍と協同し、所在のわが官憲、特に列国外交団ならびに列国軍との連携を密にし、すみやかに上海付近の治安を回復することを期します」

 23日未明、上海郊外に上陸した派遣軍は直ちに橋頭堡(きょうとうほ)を確保し、前進を開始した。

 ところが、待ち構える中国軍の防御は日本軍の予想をはるかに超えて堅固だった。

すでに書いたように、背後にドイツの軍事顧問団が控えていたからだ。

上陸初日から派遣軍に戦死傷者が続出、松井は大苦戦を強いられる。

 派遣軍の進撃を阻んだのは、上海近郊に縦横に広がるクリーク(水路)と、

それを巧妙に利用して築かれた中国軍陣地だ。

無数のトーチカなどに立てこもる精鋭部隊が日本軍将兵を狙い撃ちにする。

さらには生水を飲んだ兵士からコレラが蔓延(まんえん)し、戦力を著しく弱めた。

 上陸から2カ月余り、11月に入っても上海の在留邦人と海軍陸戦隊を救出することができない。

松井の日記に、「焦燥ノ念ニ禁セス」「攻撃思フ様ニ進捗(しんちょく)セス」の文字が並んだ。

× × ×

 松井ははぜ、苦戦を強いられたのか-。

 上陸当初、松井に与えられた兵力は四国の第11師団と名古屋の第3師団、計2万人余に過ぎなかった。

約15万人に及ぶ中国軍を相手にするには、あまりに不十分だろう。

 兵力を出し渋ったのは、参謀本部作戦部長の石原莞爾である。

全面戦争を恐れた石原は上海に派兵することすら反対した。

派遣軍の苦戦を受け、さらに3個師団を増派するが、やってはいけない兵力の逐次投入といえる。

不拡大方針を貫けなかった石原は上海戦の最中、昭和12年9月27日に関東軍参謀副長に左遷され、そこでも参謀長の東条英機と衝突して罷免、昭和陸軍史の表舞台から姿を消した(※3)。

 中国軍を見くびっていたという側面もある。

それまで、北京周辺の中国第29軍は威勢よく先制攻撃するものの、日本軍に反撃されるとすぐに退却した。

だが、ドイツ軍事顧問団の指導と訓練を受けた第88師をはじめとする上海周辺の中国軍は、日本軍が攻め込んでも容易に崩れず、何度も何度も反撃してきた。

× × ×

 上海近郊のクリークが、日本軍将兵の鮮血でみるみる赤く染まっていく。

 共同租界の東方、公大飛行場を奪取しようとした第18連隊の支隊は、猛烈な反撃を受けて4人の中隊長のうち3人が戦死、支隊長の飯田七郎も銃弾を受け、軍刀を引き抜いたまま絶命した。

 第6連隊は上陸後、20日間で連隊全体の3割に達する戦死538人、戦傷583人の犠牲を出しながら、1日平均わずか100メートルしか前進できなかった。

 9月5日に上陸した第34連隊の輜重(しちょう)兵が日記に書く。

「砲弾、小銃弾は前後左右、ところ嫌わず落ちきたり、この分にては、とうてい一週間は命なきものと覚悟す」

 9月15日に戦死した第12連隊の中隊長が部下に言い残す。

「いまの支那兵は匪賊とは違う。強い。お前らは死ぬなよ、最後まで死ぬなよ」

× × ×

 中国軍は兵力を続々と投入し、75万人の大兵力となった。

以後、11月上旬まで続く上海戦で日本軍の損害は戦死9115人、戦傷3万1257人、計4万672人に達した。

これは、日清戦争における日本軍の戦死・戦傷・病死計1万7282人の2倍以上だ(※4)。まれにみる苦戦といえよう。

 戦況を変えたのは、石原のいなくなった参謀本部が決断した第10軍(3個師団余)の投入である。

11月5日、第10軍が上海南方の金山衛に上陸し、上海の空に「日軍百万上陸」のアドバルーンが上がると、中国軍が乱れ、一斉に退却しはじめたのだ(※5)。

 11月9日、ついに日本軍は上海を完全に制圧した。

だが、戦争は終わらず、南京への道に続くのである--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 上海事件には、満州事変から4カ月後の1932(昭和7)年1月、上海で日本人僧侶が襲撃された事件をきっかけに日中両軍が衝突した第1次上海事変と、盧溝橋事件から1カ月後の第2次上海事変がある

(※2) 政府は9月2日、それまで「北支事変」と限定的にとらえていた日中間の紛争を「支那事変」と改称した

(※3) 日中戦争の回避に奔走した石原莞爾だが、そもそも戦争の種をまいたのは石原本人だったとする見方もある。

満州事変の前から対米戦争が不可避であると予測していた石原は、満州事変によって日満一体の自給自足体制を確保し、中国と密接に連携することで不敗体制を構築しようとした。

しかし満州事変の結果のみが一人歩きして陸軍の若手将校らを刺激し、内蒙古の分離独立工作(内蒙工作)などが進められるようになる。

石原は参謀本部作戦課長時代、この工作を制止しようと現地に飛んだが、計画の首謀者だった関東軍参謀の武藤章に「われわれは石原さんが満洲事変でやられたことを模範にやっている」と反論され、苦笑するほかなかったというエピソードもある。

盧溝橋事件後も不拡大派の石原(作戦部長)と拡大派の武藤(作戦課長)は衝突し、石原が関東軍参謀副長に左遷された後、武藤は中支那方面軍参謀副長に転出した。

ちなみに先の大戦後、武藤はA級戦犯として東京裁判で裁かれ、陸軍中将の階級で唯一死刑判決を受けた。

一方、満州事変の張本人である石原は訴追されなかった

(※4) 中国軍の戦死傷者も甚大で、何應鉄将軍の報告では日本軍の4倍以上、18万7200人に達した

(※5) 「百万上陸」は実際の10倍以上に誇張された宣伝だが、中国軍将兵に動揺を与え、その効果は大きかったとされる

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」24巻

○防衛研修所戦史室著「戦史叢書 支那事変陸軍作戦〈1〉」(朝雲新聞社)

○同「戦史叢書 大本営陸軍部〈1〉」(同)

○南京戦史編集委員会編「南京戦史資料集II」(偕行社・非売品)収録の「松井石根大将戦陣日記」

○井本熊男著「支那事変作戦日誌」(芙蓉書房)

○阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」(小学館)

○朝雲新聞社「平成23年版・防衛ハンドブック」

○早坂隆著「松井石根と南京事件の真実」(文芸春秋)

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