第138回 南京への道(2) 進撃する日本軍

昭和天皇の87年

進撃する日本軍 中国軍司令官がとった驚きの行動とは…

第138回 南京への道(2)

「崩れるような敗退で、数日間で精鋭を喪失し、軍規も大きく乱れた。

もし敵が大場を占領した際に、計画的に撤退したら、数十万の大軍が総崩れとなることは避けられたはずだ」

 1937(昭和12)年11月5日、日本の第10軍が上海南方に上陸し、それまで奮闘していた中国軍が一斉に退却した時のことを、中国側の将軍の一人がこう振り返る。

 上海で日本軍を食い止め、長期戦に持ち込んで欧米列国の介入を招こうとした蒋介石の戦略は、崩壊したといえるだろう。

上海の後方には堅固な防御陣地があり、そこを拠点に持久戦を続けることもできたが、

退却に転じた中国軍将兵の制御はきかず、あっさり放棄して遁走(とんそう)した。

蒋介石は日記に、「前後を忘れて、段取りなしに、雪崩を打って敗走するなんて、悲しい極まりだ」とつづっている。

× × ×

 一方、自軍の制御がきかなかったのは、日本側も同じだ。

石原莞爾が去った陸軍では参謀次長の多田駿が不拡大派の中心となり、戦闘を上海周辺に止めようとしたが、ほぼ無傷で上陸した第10軍は独断で南京への追撃を開始。

陸軍中央が定めた上海と南京の中間にある制令線を勝手に越えてしまった。

軍司令官の柳川平助は、首都南京を一気に攻略して蒋介石の戦意をくじこうとしたのである。

 第10軍は中支那方面軍に編入され、上海派遣軍の松井石根が方面軍司令官となった。

しかし、松井も多田もその手綱を引けなかった。

 日本軍の進撃に、中国側はパニック状態に陥った。

蒋介石は11月13日、重慶への遷都を決断したものの、そう簡単には南京を明け渡したくない。

固守か放棄か-。中国軍の意見は割れた。

 軍幹部の大半は、守りにくい南京を固守することに反対だった。

これに対し上将の唐生智が「死守すべきだ」と主張する。

蒋は唐を南京衛戍司令官に任命し、3カ月以上は守り通すよう指示した。

11月19日のこととされる(※1)。

× × ×

 南京は、中国4大古都のひとつだ。

その歴史は古く、紀元前8世紀~同5世紀の春秋時代にさかのぼる。

由緒ある街並みは、明の時代に築かれた全長約34キロもの城壁に囲まれ、北西に雄大な揚子江が流れている。

 12月7日、この世界最大級の城塞都市を攻めるにあたり、中支那方面軍司令官の松井石根は厳命した。

 「皇軍カ外国ノ首都ニ入城スルハ有史以来ノ盛事ニシテ(中略)正々堂々将来ノ模範タルヘキ心組ヲ以テ各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス」

 「掠奪(りゃくだつ)行為ヲナシ又不注意ト雖(いえども) 火ヲ失スルモノハ厳罰ニ処ス 軍隊ト同時ニ多数の憲兵、補助憲兵ヲ入城セシメ不法行為ヲ摘発セシム」

 松井の方面軍は翌8日に南京城外に到達。

9日には総攻撃態勢を整え、上空から降伏勧告のビラを散布する。

その直前、蒋は唐に首都防衛の指揮を託し、7日に南京を脱出した。

このとき、南京を守る中国軍は約7万人。司令官の唐は降伏勧告を拒否し、絶対死守の姿勢を示した。

 10日午後、総攻撃の火ぶたが切られる。

無数の砲弾が城壁に突き刺さり、轟音(ごうおん)が南京全市を揺るがした。

 守る中国軍は文字通り「必死」だ。

敵前逃亡を防ぐため督戦隊も配置された。

勝手に退却する兵士を射殺する特別部隊である。

トーチカの床や機関銃に足を鎖でつながれた兵士もおり、その機関銃が、城門に近づく日本軍将兵をなぎ倒した。

 10日、第9師団(金沢)の決死隊が東南の光華門に突入、一番乗りの日章旗を掲げたが、猛反撃にあって釘づけとなった。

 11日、第16師団(京都)が東の中山門を見下ろす高地を占領するも逆襲され、手榴弾が尽きて石まで投げ合った。

 12日、第6師団(熊本)と第114師団(宇都宮)が南の中華門に突撃する。

高さ20メートル、幅10メートルの、南京最大の城門だ。

激戦数時間、城壁をよじ登った第6師団の精鋭が敵との白兵戦を制し、ついに城壁上の一角を占領、城内への突破口を切り開いた。

× × ×

 中国軍のトップ、南京衛戍司令官の唐生智が突如として全軍撤退を命じたのは、いよいよ城内での市街戦が始まろうかというとき、12日の夜である。

 「各隊各個に包囲を突破し、脱出せよ」

 唐は、その命令が行き届かないうちに幕僚を連れて南京城から脱出、ひそかに揚子江を渡った。

蒋介石に誓った絶対死守の方針を、いともあっさり投げ捨てたのだ(※2)。

 この唐の、敵前逃亡ともいえる行為が中国軍将兵を激しく混乱させたのは言うまでもない。

たちまち前線陣地は放棄され、算を乱しての逃走劇が始まった。

揚子江に近い●(=手へんに邑)江(ゆうこう)門に殺到した将兵を、撤退命令を知らない督戦隊が猛射し、それでも将兵が狭い門に群がったため、多数の圧死者が出たとされる。

また、数千人以上が軍服を脱ぎ捨て、在留欧米人が設定した安全区に潜り込んだ。

 一方、予想外の事態に日本軍も狼狽(ろうばい)した。

南京が陥落した13日以降、投降兵が続々と出現したからだ。

陸軍中央も各軍上層部も、統制を失った捕虜が大量に出ることを想定していなかった。

その結果、捕虜の処置は現場部隊に丸投げされ、現在まで論争の続く大問題が起きてしまう--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 南京から重慶への遷都が正式決定するのは11月17日である

(※2) 南京撤退をめぐり蒋介石の命令も錯綜(さくそう)し、唐生智に対して12月11日、「機会を狙って撤退」するよう指示しながら、翌12日には「持久して堅守」するよう檄(げき)を飛ばした

【参考・引用文献】

○楊天石著「1937、中国軍対日作戦の第1年」(波多野澄雄ほか編「日中戦争の国際共同研究2 日中戦争の軍事的展開」〈慶応義塾大学出版会〉収録)

○服部聡著「盧溝橋から南京へ」(同収録)

○早坂隆著「松井石根と南京事件の真実」(文芸春秋)

○防衛研修所戦史室著「戦史叢書 支那事変陸軍作戦〈1〉」(朝雲新聞社)

○南京戦史編集委員会編「南京戦史」(偕行社・非売品)

○東中野修道著「再現 南京戦」(草思社)

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