第141回 大本営政府連絡会議 近衛文麿の嘆き

昭和天皇の87年

近衛文麿の嘆き「兵がどこに行くのか少しもわからない…」

第141回 大本営政府連絡会議

第二次上海事変で日中両軍が激突した昭和12年8月以降、首相の近衛文麿は不拡大の意思を持ちながら、中国側と交渉の糸口さえつかめないでいた。

 統帥権があるため陸海軍の作戦に全く関与できず、その内容も知らされていなかったからだ。

華北でも戦火が拡大し、陸軍はズルズルと派兵を繰り返した。

近衛は手記に、「(派兵しても)その兵が何処に行くのか、その後一体どうするのかは、少しも政府には判らぬ始末」だったと書き残している。

政府がこんな状態では、交渉のしようがないだろう。

 戦争状態を終結するには、政府と軍部の意思疎通が欠かせない。

そこで近衛が考えたのは、大本営の設置である。

大本営は戦時における天皇直属の最高統帥機関だ。

正式な構成員は参謀本部と軍令部の首脳のみだが、かつて伊藤博文が首相の立場で列席した前例がある。

近衛は、大本営を設置したうえで自ら構成員に加わろうとした。

 第二次上海事変が終わりに近づいた頃、内閣書記官長の風見章が陸海軍の意向をただしてみた

海相の米内光政は、「陸軍がいいというなら、海軍は賛成しようじゃないか」と言った。

陸相の杉山元は、「ウム、そりゃよかろう」だった。

ところが数日後、杉山が「陸軍のほうには異議がないのだが、海軍が反対しているので困っている」と言い出した。

驚いた風見が米内にただすと、「冗談じゃない、陸軍のほうが反対しているんだ」と言う…。

 この非常時に、またしても混乱である。

大本営の設置は、立ち消えになりかけた。

 そのとき、風見に知恵をつけたのは同盟通信社長の岩永祐吉である。

 「陸海軍とも、近衛に辞められたら困ると思っている。

辞める辞めると言って、ひとつ、おどかしてやれ」

 果して、その効果はてきめんだった。

風見がそれとなく、首相が辞めそうだとマスコミなどに流したところ、陸海軍が折れ、「首相を大本営の構成員にするのは統帥上許されないが、内閣と大本営の連絡会議をつくるから、それでがまんしてほしい」と、妥協案を持ち出してきたのである。

 当時は日中双方とも宣戦布告をしておらず、本来なら大本営は設置できない。

しかし昭和天皇は12年11月17日、陸海両相の奏請により従来の大本営条例を廃止し、「大本営ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ置ク」とする新たな大本営令を裁可した。

同時に大本営政府連絡会議が発足する。

政府から首相、外相、陸海両相らが、統帥部から参謀総長と軍令部総長らが参加し、ときには昭和天皇も自ら臨席する、最高レベルの協議体だ(※1)。

 この連絡会議のもとで進められたのが、駐華ドイツ大使、オスカー・トラウトマンを仲介とするトラウトマン和平工作である。

ところが近衛は、この工作をめぐり大失敗を犯してしまう--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 大本営の構成員は陸海軍の両総長だが、当時の参謀総長は閑院宮載仁(ことひと)親王、軍令部総長は伏見宮博恭(ひろやす)王で、いずれも皇族だったことから大本営政府連絡会議には出席せず、主に参謀次長、軍令部次長が代役を務めた。

ただし御前会議が開かれる際には両総長も出席した

【参考・引用文献】

○矢部貞治編著「近衛文麿〈上〉」(弘文堂)

○風見章著「近衛内閣」(日本出版協同)

○宮内庁編集「昭和天皇実録」24巻

 

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