第143回 御前会議 :「国民政府を相手とせず、、」和平を閉ざした近衛声明

昭和天皇の87年

「国民政府を相手とせず…」和平を閉ざした近衛声明

第143回 御前会議

昭和13年1月11日《午後二時、(昭和天皇は)御学問所において開催の支那事変処理に関する御前会議に臨まれる。

(中略・御前会議には首相、外相、蔵相、内相、陸海両相、両総長、両次長、枢密院議長が出席し)支那事変処理根本方針を審議・可決する。

ここに、国民政府の対応如何によっては事変解決を同政府に期待せず、新興支那政権の成立を助長するとした根本方針が決定する》

 昭和になって初の御前会議の様子を伝える、昭和天皇実録の記述である(25巻7頁)。

議題は「支那事変処理根本方針」。

すなわち日中和平工作についてだ。

駐華ドイツ大使、オスカー・トラウトマンを仲介とする和平工作で、日本が一方的に条件を引き上げ、蒋介石政権(国民政府)の対応が大きく揺らいだ経緯は前回詳述した。

日本の新たな条件に国民政府が何ら返答しないため、しびれを切らした首相の近衛文麿は御前会議の開催を奏請。

このまま国民政府が誠実に対応しないなら「新興支那政権の成立を助長」し、それと和平交渉するという方針を決めたのが、昭和初の御前会議だった。

 この方針は、「満州国及び支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し、これを核心として世界の平和に貢献する」ことを真っ先に掲げていた。

中国に対し、〈1〉満州国の承認〈2〉排日・反満政策の放棄〈3〉華北に共存共栄を実現する機構の設立〈4〉防共政策の確立〈5〉所要の賠償-などを求めたが、〈1〉以外は妥結の余地がある。

〈3〉も中国の主権を認め、〈5〉の賠償額も設定せず、譲歩の余地を残していた。

交渉次第で、和平成立の可能性はまだあったといえるだろう。

× × ×

 御前会議で昭和天皇は発言しなかった。

前日に近衛が《御発言のないことを願う旨の言上》をしたからだ(昭和天皇実録25巻6頁)。昭和天皇は、和平に向けた近衛の決意を信じるしかなかった。

 ところが近衛は御前会議後、致命的な判断ミスを犯す。

1月14日に中国がドイツを通じ、「日本側の条件は漠然としているので具体的に明示してほしい」と照会してきたとき、誠意がみられないとして、蒋介石政権との交渉打ち切りを閣議決定してしまうのだ。

驚いたのは、参謀次長の多田駿である。

多田も、蒋介石政権の対応次第では「期待せず…」と決めた御前会議に出席したが、その3日後に交渉を打ち切るとは思ってもみなかった。

このとき多田が憂慮したのは、戦争長期化による軍事力の消耗だ。

すでに陸軍の戦争遂行能力は限界点を超えており(※1)、当面の戦争相手である蒋介石と、可能な限り和平努力を続けなければならない。

 翌15日の大本営政府連絡会議で、多田は懸命に交渉継続を訴えた。

それを外相の広田弘毅が突き放す。

 「中国側に和平解決の誠意がないことは明らかです。

参謀次長は外務大臣を信用できませんか」

海相の米内光政も多田に冷たかった。

 「統帥部が外務大臣を信用しないなら、政府不信任である。

内閣総辞職になってもいいのか」

 多田は、唇をかんだ。

× × ×

 翌16日、近衛は声明を発表する。

 「帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手(相手)トセス、帝国ト真ニ提携スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待シ、是ト両国国交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設ニ協力セントス」

これが悪名高い、近衛声明(第1次)である。

事実上の国交断絶といえるだろう。

近衛は、戦争相手との交渉窓口を自ら閉ざしてしまったのだ。

 のちに近衛は、「この声明は、識者に指摘されるまでもなく、非常な失敗であつた。

余自身深く失敗なりしことを認むるものである」と手記につづっている。

「相手にせず」との表現は、その5日前に御前会議で決めた「期待せず」より厳しい。

近衛は昭和天皇に、「最初は左程(さほど)強い意味はなかりしも議会の関係上に於て非常に堅苦しきものとなれる」と弁明したが、和平を遠のかせた責任は否定できまい。

× × ×

 昭和天皇の苦悩と落胆は大きかった。

心労からか風邪をこじらせ、2月上旬には寝込んでしまっている。

謁見した外相の広田が、「いかにも憔悴(しょうすい)してをられる。

まことに見上げるのもお気の毒なやうな御様子であつた」と漏らしたほどだ。

侍従の岡部長章も述懐する。

 「(日中戦争が長引いて)陛下はお考え込みになる場合が多くなりました。

片方のお靴には拍車が光っていて陸軍装であるのに、他方は海軍式のものをお用いになるということがあり、(中略)お悩みのご心中が拝察されるのでした」

閣僚や軍上層部も、昭和天皇の健康を憂慮した。

 2月15日《御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。

その際、閣員の総意として御静養のため葉山御用邸へ行幸を願う旨の奏上を受けられる》

(昭和天皇実録25巻21頁)

 16日《御学問所において、参謀総長載仁(ことひと)親王に謁を賜い、御静養のため葉山御用邸へ行幸を願う旨の奏上を受けられる。

(中略)午後二時三分、軍令部総長博恭(ひろやす)王に謁を賜い、同様の奏上を受けられる》(同巻22頁)

 昭和天皇の心を占めているのは、戦地にいる将兵の苦境だ。

静養を勧められて、参謀総長に言った。

 「自分がこの際僅かな病気で転地するやうなことがあつては、第一線にゐる将士に対してどういふ影響があるか、大丈夫か」

 参謀総長が即座に答える。

 「無論大丈夫でございます。玉体にお障りになるやうなことがあれば、なほのこと士気に関しますから…」

 2月19日、昭和天皇は香淳皇后とともに神奈川県の葉山御用邸に行幸し、3月5日まで滞在した。

その間、久々に生物学の研究に取り組んだが、泥沼化した戦争への不安が頭から離れることはなかっただろう。

 一方、帝国議会ではその頃、近衛内閣が提出した国家総動員法案をめぐり、激論が巻き起こっていた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 参謀本部では日中戦争の始まる前、中国に展開できる兵力は最大で11個師団と考えていたが、すでに限界を上回る13個師団を投入しており、13年1月時点で日本に残っている常設師団は北海道の第7師団と近衛師団しかなかった

【参考・引用文献】

○宮内庁編集「昭和天皇実録」25巻

○広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」(葦書房)

○畝本正巳著「証言による『南京戦史』」(機関誌「偕行」(偕行社)昭和59年4月号収録)

○矢部貞治編著「近衛文麿〈上〉」(弘文堂)

○古川隆久著「近衛文麿」(吉川弘文館)

○原田熊雄述「西園寺公と政局」(岩波書店)6巻

○岡部長章著「ある侍従の回想記-激動時代の昭和天皇」(朝日ソノラマ)

「コメント」
近衛は、失敗したのではない。日中戦争を長引かせるために和平交渉を邪魔したのである。
近衛は、日本を敗戦させてその混乱に乗じて「敗戦革命」を行う目的があった。
だから、日中戦争と日米戦争に軍部を引き込み、藤原氏の末裔である近衛家は天皇に代わる権力を革命によって我が物にするためであった。
共産主義者の風見卓や尾崎秀美らを利用して日本の敗戦を企んでいた。

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