第145回 張鼓峰事件 動き出したソ連軍

昭和天皇の87年

動き出したソ連軍 天皇は陸相の“ペテン”に激怒した

第145回 張鼓峰事件

朝鮮半島の北境、豆満江の河口から20キロ余り上流に、標高約150メートルの丘陵がある。

朝鮮、満州、ソ連の国境が近接する地点で、その名を張鼓峰という。

 ソ連兵が張鼓峰の頂上に現れ、満州領の西側斜面に突如として陣地を築きはじめたのは、1938(昭和13)年7月9日のことだ。

張鼓峰周辺の国境警備は朝鮮軍が担当している。

日本の駐ソ大使館はソ連に抗議し、撤兵を要求したが、ソ連は自国領だと言い張り、かえって兵力を増強した。

 ちょうど1年前の盧溝橋事件で発火した日中戦争をめぐり、ソ連が中国を背後から操り、種々暗躍していたことは何度も書いた。

そのソ連が、いよいよ自ら動き出したのだ。

 内閣改造を終えたばかりの近衛文麿内閣は動揺した

日中戦争の泥沼にはまりながら、対ソ戦をはじめる余裕はない。

7月20日に関係閣僚が協議し、新陸相の板垣征四郎は現地軍の増強を主張したが、新外相の宇垣一成が首を横にふった。

 「防備の強化は必要だろうが、現地に集結した部隊が越境して攻勢に出る場合は、事前に閣議の承認を得てもらわねば困る。

今は支那事変の最中だ。

張鼓峰は外交的に片付けた方がよくはないか」

 陸士(陸軍士官学校)1期の宇垣と16期の板垣とでは、貫禄が山ほども違う。

板垣は渋々うなずいた。

 「そういうことにしましょう」

 事前承認の同意を得た宇垣は参内し、事態を憂慮する昭和天皇に協議内容を奏上した。

昭和天皇は、「外交交渉に努力するように」と述べたという。

 ところが、その後に参謀総長が参内して提出した書類には、「備考」として、現地軍の運用は「参謀総長に御委任相成度(あいなりたく)…」などと書かれていた。

陸軍は、閣僚協議と異なる内容を、そっと書類の片隅に付け足していたのだ。

 昭和天皇は見逃さなかった。

昭和天皇実録によると、書類を手元にとどめて裁可せず、侍従武官長を通じて陸相の板垣に、「この件に関する拝謁は無益である」と伝えた(※1)。

 《しかるに、陸軍大臣板垣征四郎より強いての拝謁願いにより、(中略)御学問所において陸軍大臣に謁を賜う。

関係閣僚との相談につき御下問になり、委細協議した旨の奉答、及び速やかなる実力行使の必要な所以(ゆえん)につき奏上を受けられる。

これに対し、語気を強められ、満州事変・支那事変勃発時の陸軍の態度につき御言及の上、命令に依らずして一兵たりとも動かさないよう訓諭される》(昭和天皇実録25巻97頁)

 昭和天皇の数ある語録のうち、「今後は朕(ちん)の命令なくして一兵たりとも動かすべからず」の訓戒は、こうして発せられた。

× × ×

 昭和天皇がこれほど激怒したのは、武力行使について板垣が「外相も海相も賛成いたしました」と、事実と異なることを言ったからだ。

外相の宇垣は日記に「見様によりては一種のペテン」と書いている。

その“ペテン”を昭和天皇に見破られ、板垣は真っ青になった。

 ほうほうの体で退出した板垣が、うなだれて言う。

 「とても再び陛下のお顔を見上げることはできない。ぜひ辞めたい」

 板垣の失態に、仰天したのは首相の近衛文麿だ。

すでに近衛は板垣の能力を見限っていたが、ここで辞められたら内閣が瓦解(がかい)する(※2)。

近衛は7月21日に参内し、板垣の続投を求めて昭和天皇にすがった。

 昭和天皇も、強く言い過ぎたと思ったのだろう。

かつて田中義一内閣を問責して総辞職につながった、苦い経験もある。

 昭和天皇は翌22日、《侍従長百武三郎に対し、陸軍大臣への訓諭は陸軍全体あるいは陸軍大臣個人に対する不信任の意図ではなく、信任すればこその訓諭である旨の御言葉を述べられ、その旨を侍従武官長を通じて陸軍大臣に伝達するよう命じられる》

(昭和天皇実録25巻97~98頁)

 昭和天皇の意向により、板垣は辞意を撤回した。

同時に、衝突回避の方針は不動のものとなる。

× × ×

 一方、張鼓峰に進出したソ連軍は容赦しなかった。

7月29日、ソ連軍の一部が満州領内にさらに深く進入、朝鮮軍第19師団が撃退すると、戦車や爆撃機を続々と投入し、猛攻撃を仕掛けてきたのだ。

 第19師団は張鼓峰の頂上を奪還したものの、ソ連領には入らず、専守防衛に徹する。

衝突回避の方針により、日本側からは1台の戦車も、1機の航空機も援護に現れない。

それでも第19師団の将兵は圧倒的兵力のソ連軍を撃退し続けた。

 8月10日、外交交渉によりようやく停戦協定が成立する。

全面衝突は回避されたのだ。

昭和天皇は、専守防衛を貫いた第19師団の将兵を激賞した。

 15日、参謀総長を呼んで勅語を与えた。

 《「今回ノ張鼓峰事件ニ於テ我カ将兵カ困難ナル情況ノ下ニ寡兵之ニ当リ自重隠忍克ク其任務ヲ完ウセルハ満足ニ思フ 尚死傷者ニ対シ哀矜ノ情ニ勝ヘス 此旨将兵ニ申シ伝ヘヨ」》

(昭和天皇実録25巻107~108頁)

× × ×

 張鼓峰事件でソ連軍は、停戦成立までに延べ約1900台の戦車と延べ約780機の航空機を投入しながら、3712人の死傷者を出した。

日本側死傷者(1440人)の2・5倍もの損害だ。

ソ連は、圧倒的兵力でも崩せなかった日本の軍隊の実力に、驚愕したことだろう。

 以後、ソ連は日本の軍事的圧力を弱めようと、さまざまな工作活動を展開する。

ソ連のスパイ網は、すでに近衛政権の中枢にも及んでいた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 元老私設秘書の原田熊雄によれば、このとき昭和天皇は「もし万一武力行使を許せといふやうなことで(陸相が)来るのならば、自分はどこまでも許す意思はない」と言ったという

(※2) 近衛は板垣の陸相就任直後、昭和天皇に「会ってみたらぼんくらな男」だったとこぼし、昭和天皇は側近に「近衛はすぐ変るね」と苦笑したとされる

【参考・引用文献】

○中村粲著「大東亜戦争への道」(展転社)

○角田順校訂「宇垣一成日記〈2〉」(みすず書房)

○笠原孝太著「日ソ張鼓峯事件史」(錦正社)

○高宮太平著「天皇陛下」(酣灯社)

○原田熊雄述「西園寺公と政局」(岩波書店)7巻

○宮内庁編「昭和天皇実録」25巻

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